2016/12/08

■十二月八日

【過去記事・旧ブログ】

徳川夢声『夢声戦争日記』
http://tenki00.exblog.jp/2333157/

『古川ロッパ昭和日記・戦中篇』
http://tenki00.exblog.jp/2335597/


2016/12/07

■蟹と原爆 『川柳カード』第13号の湊圭史

ひきつづき『川柳カード』第13号(2016年11月25日)より。


押してよい赤いボタンに見詰められ  湊圭史

ああ、これは押してしまいますね。「押しちゃダメなボタン」でも、見詰められたら押しちゃいます。


原爆許しちゃうってカニなら云うね  同

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太》が下敷きになっています。

カニがほんとうのところ何を考えているのか、わからないけれど、すぐあとに《前言を撤回します枝豆として》とあるので、原爆を許すのは、さすがにまずいと、かたわらの枝豆は思い、フォローした体(てい)。


なお、掲句2句を含む10句連作タイトルは「メルドタウン」。

メルトダウン(meltdown)ではありません。メルド。タウン。フランス語のメルド(merde)は「糞」の意で、日本語「クソッタレ」と同じく悪態に使われる(ジャリ『ユビュ王』のセリフとかネ)。タイトルはこのメルドと掛けてあるのかもしれません。


2016/12/06

■優秀な分析が出来の悪い読者を楽しませてくれない一例 『川柳カード』第13号の小津夜景レビュー

小津夜景「〈みせけち〉の主体と〈みせかけ〉の世界」(『川柳カード』第13号・2016年11月25日)は、兵頭全郎句集『n≠0 PROTOTYPE』のレビュー。

否定等号(≠)からの発想だろうか、〈みせけち〉を鍵語に、句集の傾向を明晰に分析。主体やら対象やら意味やらの「確実性」の否定=不確実性への言及・まなざし・そぶりを、句群に見て取ります。

と、こう書くと、すばらしいレビューのようですが、全体に優秀な学生のレポートのようで、読んで納得はできるものの、おもしろいかと問われれば、ちょっと答えに逡巡。出来の悪いオトナを楽しませてくれない。

(これは難解とか衒学的とかいった問題ではない。秀逸な批評は、理解力の及ばぬ読者にも満足や幸せや刺激を与えてくれるものです)

このレビューの《腰のひけ方》は、書き手が最後に「メモ書き」とことわっているように意図の範囲内ともいえますが、(この書き手にはめずらしく)技術的な部分での収まりの悪さ・不足にも原因があるようです。

記事の理路に置かれた引用句には、「これでいいのか?」と立ち止まってしまうこと、たびたび。例えば、1句目、2句目、そして3句目として引かれた《おはようございます ※個人の感想です》において、「ただし」の意に用いられる「※」から公共性の〈みせけち〉を導き、1句目の「付箋」に立ち戻るあたりは、あざやか。ところが、読み進むうち、レビューの枠組みと引用句のあいだの齟齬がしだいに目立つようになります。

「むりやり強引に」という批評の力技を愉しむこともできないことはないのですが、書き手自身がだんだんとしんどくなっていくようにも見えます。20分興行のプロレスなのに5分で息があがるかんじ。

援用されるエピソードも、モナリザの髭(デュシャン)はみごと。なのに、マグリットのパイプを持ってきたところは「その差し手、ちょっと浅いかな?」と、こちらの《読みの熱》が醒める。

ひょっとしたら、半分の紙幅だったら、ぴったりクリアカット! という成功を見せてもらえたかもしれません。


とはいえ、句集『n≠0 PROTOTYPE』に〈みせけち〉という視点を定めた点、出色には違いなく、小津夜景が俳句・川柳界隈に突然登場して以来、私が抱き続けている尊敬と畏怖(夜景、おそろしい子!)を損ねるものではありません。機会があれば、ご一読を。


なお、句集『n≠0 PROTOTYPE』は私も拝読しました。興味深い試行がそこここにありました。つまり、これって作者自身が言うように「プロトタイプ」なんだろうな、と。

これらの試行を経て、次のタイプ、量産型とは言いませんが、作品として読者に提示される「次」が出て来るのだろうという気がしました。


あとね、最後にひとつ。一般論。レビュー・批評に不可欠なのは、気合、ガッツやで。

(思考・技術は「ある程度」備わっているのが前提だけど)


【過去記事】相同 兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』の一句



2016/12/05

■人肌の句

鳥の巣にひとの匂いの雨が降る  榊陽子

「俳句のような句」という言い方は、川柳には褒め言葉にならないし、むしろ失礼なのだろうが、「鳥の巣」=春の季語という決まりごとに慣れたアタマには、そこを手がかりに雨の温度などにも思いが到り、「なるほど、人の匂い、か」と。

いや、多くの俳人にとっては、冬に「鳥の巣」が出てくることに驚くかもしれない。これは単なる習い性。鳥の巣は一年中ありまっせ、だんな。

一方、「ひとの匂い」という捉え方の興趣の領分が、川柳か俳句か、といったこともあるにはあるのですが、これ、じつはどうでもよくて、ジャンルとしての川柳/俳句の別はあるものの、一句を読むとき、向かい合うときは、区別なんて知ったことか、となってしまうのであります。

なお、掲句は以下のブログ記事より。
http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-172.html


人肌の湿度や温度やテクスチャ、人肌の機微やら紆余曲折やら。この作家の句は、そんなところから始まるのかもしれない。

そんなふうに思うのは、同じ記事に、こんな句があるせいかもしれません。

マフラーを巻いて行き止まりの体位  同

マフラーと体位という、近いのか遠いのかわからない二物(「裸エプロン」ならぬ、「裸マフラー」という、素敵な絵も想像してしまった。神様、ごめんなさい)から来るのだろうか、乾いた即物性があります。さらに「行き止まり」に色濃い、ある種の「投げ出し」感。そのあたりのクールさがおもしろいわけです。




※動画は記事内容とさしあたり無関係。

■座興とそうじゃない句ははっきり区別するタイプです

上田信治さんの整理(酒席で聞いただけ)によれば、作句には、3つの態度の別がある。

A 手習い

B 座興

C 上記以外

私の場合、〔A 手習い〕がない。結社等に属さず、どだい習う気も根気もない。

そして、〔B 座興〕と〔C 上記以外〕ははっきり区別するタイプ。ちなみに、前記事のようなイベントはもちろんのこと、その場の座興。

座興の句を貶める気はありませんが、手習いでも座興でもない〔C 上記以外〕が、その人の本線として、例えば句集に収められたりするわけです。ところが、このところ、困ったことに、B:Cの数的比率において、どんどんBが増え、〔C 上記以外〕がなくなりつつある。

こんなことでは句集なんて出来ないぢやあないか。