2017/08/18

■鰹のこと 『円錐』第74号より

一日が映画のやうでなく鰹  宮﨑莉々花

映画のような一日なんて、なかなかない(まだ、ないぞ、これだけの期間、生きてきて)。

句の帰着/展開先は「鰹」。どうしようもなく身も蓋もない鰹。

鰹のたたきでも食べてんだろうか。鰹は、どう調理しようが、あまり映画的ではない。


しらっと大胆に季語を置いた句は、かなり好みです。鰹も好きです。とくに戻り鰹。

掲句は『円錐』第74号(2017年8月10日)より。

■八月某日のトロワコント

1 一週間以上先の、ある日時にその件は電話で話しましょう、というアポイントがメールで成立。この悠長な、というか懐の深い感じ、わりあい好き。

2 森林太郎(もり・りんたろう)を一瞬「しんりん・たろう」と読んでしまった自分がなさけない、舌を噛み切りたい。

3 自撮りに挑戦。


2017/08/17

■山椒魚、あるいは濡れる話

ポケットはいつも山椒魚だった  榊陽子〔*〕

これはそうとう奇妙なポケット、かなりイヤなポケット。

山椒魚は夏の季語、ってことよりも、こんな句を思いましたよ。

ペダル踏む夜は濡れた服のようだ  近藤十四郎(1999年5月)


〔*〕出典
http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-203.html

2017/08/16

■俳句の賞はぜったい必要、かつ関心ゼロ。

野口る理さんの連載「ほどける冠」クロイワくんの回が予想に反して(というと叱られるか?)おもしろかったので、このへんで、私が俳句の賞全般に関心ゼロである理由(前掲の記事を読んでる時点でゼロとは言えないんだけどね)を書いておいたほうがいいと思った。

以下、深慮なく、気ままに。

まず、誤解する人がいるといけないので、言っておくと、俳句の賞は、俳句にとって、俳句世間にとって必要なものです。

なんか、関心ゼロと言うと、賞全般を否定しているみたいに曲解する人がいるかもしれないが、ぜんぜん否定しない。必要なもの。でも、自分には関心がない。

そういうことって世の中にはいっぱいあるでしょう? 俳句関連では「結社」もそうかな? 自分とはいまも将来も無縁。たいして興味もない。でも否定なんてぜんぜんしない。結社も必要なもの。

で、賞の話。

関心・無関心にはふたつの局面があって、A:参加・応募、B:外から見て。

ひとつめのA。

応募/参加したことはある。結社の作品賞とか、豆の木賞とか、角川俳句賞(2回)。だいぶむかしにその手のものに出すのはやめていると思う(忘れていたら、ごめん)。理由は、個別にいろいろあるけれど、句集を出したことが大きい。

とくにオープンな賞(俳句総合誌etc)には、広く評価を問う、認められれば嬉しい(若者が最近よく使う承認欲求)、自作をまとめる楽しさ、まとめて読んでもらえる嬉しさなどの動機があるようなのですが、句集を出したら、そのへんのことは解決してしまった感。

自分の句集が「認められた」とは思わないけれど(人それぞれ好いてくれたりそうでなかったりのはず。それは受賞作も落選作も同じ)、俳句をやってて、あの時点(『けむり』は2011年)まででこんな俳句を作っていて、ああいうかたちにまとめました、ということで、気持ちが済んじゃった。

それと、承認欲求というのは、あまりよくわからなくて、世間に自分の存在を認められるということかな? もしそうなら、そんなもん知ったことか、なわけです。この年齢になるまで、げんに喰ってきて、けっして多くはないだいじな人(たち)をだいじにしているつもりだし、まあまあだいじにしてもらっている。それ以外の「世間」はどうでもいい。

自分がつくる俳句に関しては、もっとどうでもよくて、まあ、おもしろがってくれている人もきっといるはず。

そう考えていくと、「承認欲求」というのは、若者のものかもしれませんね。この年齢になると、承認されなくてもされても、げんに死なずに、ここで暮らしている。しかも、たのしく。どんなもんだい! という感じです。俳句もすくなくとも今はまだ続けているみたいだし。

話が長くなってまずいのですが、《どうでもよくない人たち》だけを見て、暮らしたい、俳句をやりたい、というのが、正直な心境で、《どうでもいい人たち》は、ほんと、どうでもいい、ということで、これはかなり「いけないこと」を言っています。

B。これがだいじかな。

参加せず外から見ても賞には関心がない、その理由は、(これもっぱらオープンな賞についてですが)、賞の結果が示す「良き俳句/おもしろい俳句」と、自分が思うそれが、そうとうに乖離していること。これは受賞作がダメということではなくて、自分の読みたいものを見つけるのに、賞が寄与してくれないということかもしれない。

つまり、どんな俳句が読みたいかという読者(=私)の欲求から、かなり遠く離れたところに数々の俳句賞がある、という感じ。

山口優夢が前掲連載で、《「その賞を取っていると読むに値する」と思ってもらえる》とうフレーズを口にしているが、自分の中でその指針が揺らいで崩れきってしまった。

付言すれば、高柳克弘が同連載で、《賞はいわゆる「市場」との関係性が濃くて、文学の評価基準としては明らかにおかしいような軸もしばしば入り込んできます。》と指摘する事柄も、私の無関心には関係がない。市場におもねること、政治が介入することはあたりまえ。それだから私の関心が遠のいたのではない。

それに、(これを言ったら話にならないけれど)もともと、俳句のAとB、句集AとB、どちらがいいか、といった問いの立て方に興味がない。どっちもいい、どっちもダメってことだって多々あるわけで、それでいい。

例えば、去年2016年に読んだ句集では岡野泰輔『なめらかな世界の肉』がほんとよかった。それと、例えば、このあいだ亡くなった金原まさ子さんの句集『カルナヴァル』、どっちがいい? と訊かれても、どっちもいい、どっちも好きと答えるしかない。その2つの句集に優劣を付けることに、いったいどんな意味がある? ないよね。そう考えると、どれがいちばんいいかを決める「賞」への興味はなくなっていくのでした。


AとBを総合すると(ちょっと飛躍があるよ)、俳句世間のマジョリティと親密であることは、自分が暮らすこと、俳句を愉しむことのささいな条件でさえありえない。まったくもって不要。これは年々思いが深くなった。

俳句の賞には、俳句世間的マジョリティのさまざまな部面(おもにニーズ)を集約したようなところがある。作風の潮流。承認欲求の受け皿。《読まれる》機会創出。サロンへの話題提供。

でも、それらは、自分にとって不要。であれば、関心も興味もなくなる。


で、もう一度、念のために言っておくと、私にはどうでもよくても、どうでもよくない人たちがたくさんいる以上、賞は必要です、ぜったい。

(もう1回くらい、軽く続くかも)

2017/08/15

■脚のこと 『オルガン』第10号より

空耳ならぬ空目という語が定着しつつある。老眼と老人ボケによる空目が私には増えてきたみたいで、

  虹が脚をつかひ隣にをりにけり

おっ、カッコいい句、と思って、よく見たら、

蚊が脚をつかひ隣にをりにけり  宮本佳世乃

だった。

ファンタジーじゃなくてリアルをいきいきと描いた句であったわけで、でも、私は、虹も蚊も、どちらも愛し、どちらとも共にある。蚊取線香を炊くか炊かないかの違いはあるけれど。


(締めをちょっと凝ってみたが、大失敗こいた模様)


掲句は『オルガン』第10号(2017年8月8日)より。

【参考】相子智恵 月曜日の一句
http://hw02.blogspot.jp/2017/08/blog-post_14.html

2017/08/14

■不穏

見た目、ボロボロなんですが、どうやら稼働中。

ひとつだけ闇を見せて、そこがとても不穏。

画像をクリックすると大きくなります

2017/08/13

■かもめ 紀野恵『白猫倶楽部』より

小振りなるこどものかもめ私より少しくものを知らないだけの 紀野恵

その人と子かもめしかいない世界。

掲歌は『白猫倶楽部』(2017年7月/書肆侃侃房)より。

【お知らせ】8月のくにたち句会

2017年8月27日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

2017/08/12

■某日、山口優夢の胃におさまった鴨のパテ

小津夜景さんのおみやげを、その日。

2017/08/11

■精がつきますかね?

賜り物の猪ソーセージ。



みなさま、暑い日がまだまだ続きます。くれぐれもご自愛ください。

■非情なる前田吟の歌

オルガンを踏みつつ浜に来てしまふ耳には前田吟なる響き  10key

とことはに植木等のごとくあれ金魚たゆたふ東京メトロ  同

幾日も過ぎてさらなる日々の過ぐ野際陽子の死んだあの日を 同


2017/08/10

■ヘンな句を引かれてしまふ残暑かな






≫カーのおはなし。:ozu yakei flowers' kung-fu
http://yakeiozu.blogspot.jp/2017/08/blog-post_9.html

もちろんのこと、どの句も喜んでおります。感謝感謝であります。

〔原典〕
1 『増補版人名句集チャーリーさん』
2 『けむり』(2011年10月25日)
  ※初めて作った句を代表句にするのもよいかも。
3 「るびふる」http://hw02.blogspot.jp/2017/03/blog-post_25.html



2017/08/09

■某日:稲荷・下北沢・鐵砲洲

1 ××稲荷とかいってお稲荷さんのヴァリエーションがたくさんあるが、単なるお稲荷さんよりも美味しかったためしがない。単なるお稲荷さん偉大。

2 テレ東『下北沢ダイハード』が面白い。第3話は一幕劇をテレビドラマにしたような作り。

3 鐵砲洲から隅田川へ出る。左に中央大橋、右に佃大橋。川ラヴァー、橋ラヴァーには鉄板スポット。小雨のなか、傘をさしての散歩もまたオツ。

2017/08/08

■プチな万年筆

近所の文房具屋さんに白のサインペンを買いに行ったら、いいのがなかった。何も買わずに店を出るのはしのびなくて、ライトグリーンの簡易万年筆を購う。

ちっこい。

pilot petit 1。200円(税別)はうれしい。


2017/08/07

■瀬戸正洋の語尾 『里』第173号より

句の語尾はたいせつ。大きく意味を担うのではないけれど、たいせつ。

ワルツよりタンゴ雷が落ちた  瀬戸正洋

昼顔や遊動円木が折れた  同

過去形語尾のおもしろさ。

掲句は『里』第173号(2017年8月号)瀬戸正洋さんの7句より。ほかに、

鈴蘭やホテルに喫茶室はある  同



2017/08/06

■冒頭集:挨拶

柳本 でもあれもあそこにたっただんかいでおわったとおもって
はじめるためにおじぎしたしゅんかん、
おわったんですよ
もうあとは後始末というか。
安福 はじまったらおわりますもんね
(安福望×柳本々々『きょうごめん行けないんだ』2017年4月1日/食パンとペン)

■某日、祝婚

アヤカさんのウェディングパーティーへ。

1 シンジさんとジャケットがお揃いだった。

2 イコマくんがファンキーな眼鏡をかけていた。

3 アヤカ母とお話しているとき、アヤカ母が新郎友人たちに「アヤカの母です」と挨拶した流れで、「父です」と名乗りそうになった。

2017/08/05

■出会う読者はひとりでいい


句が読者を待ち、出会う。その数は、ひとりでいい。

ゴキブリは1匹見つけたら、何十匹何百匹いるって言うじゃないですか(ヘンな喩え)。だから、ひとり、あるいは数名でいい。

数を倚むと、だいじな人を逃すかもしれません(ヘンな喩えに走りそうなところを自制した)。

■句は何を待っているのか?

野口る理さんの現在進行中の連載「ほどける冠」は、俳句の賞に関する話題で、「なんでまたこんなややこしくて微妙なテーマを?」とおせっかいながら思ってしまうわけですが、だからこそ面白くなりそうな予感もあります(どうなるんだろうね?)。

なお、私自身は俳句の賞全般に興味関心がほとんどゼロ。自分が応募することはおろか(過去に応募・参加したことはある)、他人の受賞や落選にも関心がなく、つまり賞自体に関心がない〔*〕。知り合いが受賞すれば「おめでとう」は言いますが、それだけ。理由は、機会があれば書くかもしれませんが、当面、この記事には関係がないから、話を進めるね。

で、テーマとは別に、2017年8月5日の記事チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪〉という句について「んなに×をつけられている中、谷雄介さんだけが◎をしてくれていた」とある。

へぇ、×? この句はよく憶えている。私は好きで、ウラハイで引用した。

http://hw02.blogspot.jp/2014/01/blog-post_14.html

柳本々々さんも、この句を大々的に取り上げている。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_16.html


何が言いたいのかというと、人それぞれ、好みや見解が違うのだなあということはもちろんなのですが、そう焦って◯とか×をつける必要はない、ということ。

句は、◯×をもらうために生まれてきたわけでも、◯×のプラカードが上がるのを待っているのでもなく(とはいえ、そういう側面もある。判断や評価はだいじ)、読者を待っているのではないか、ということ。

句は、あわてずさわがず、読者を待っていればいいんだ。

そう考えると、つくるこちらとしても気が楽だし、じぶんのつくった句のことがかわいくなってきませんか?(子離れができない親というのではなく、「いい人が見つかればいいね」とやさしく見守る態度)。


〔*〕週刊俳句で賞を企画したときは、どうするんだろう(過去、週刊俳句賞の名で賞イベントをやった)。そのときは、他の人に担当してもらいます。

2017/08/04

■鍵穴その他 『里』第173号の喪字男

もつたいないほどの勃起や夏の雲  喪字男

勃起は神様からの授かりもの・賜りもの。失われつつあるいまはじめてそれがわかる(喪字男さんのことじゃないよ。為念)。


鍵穴を覆ふががんぼそれごと挿す  同

ががんぼの大きさが「覆ふ」によって的確に示され、「それごと」に確かな気分。全体に省略が効いて、ムダがない。


『里』第173号(2017年8月号)、喪字男さんの7句より。ほかに、

短夜をもつと短くする薬  同

なんだろう?


2017/08/03

■いま書くものは、いま以外に書けるわけがないのだから

「いましか書けないものを」などという空疎なフレーズを信じてはいけない、踊らされるなよ、ということかな? 短く言うと。

福田若之:いましか書けないもの

短く言ったり単純化したりしちゃいけないんだろうけど(だから、福田若之は937文字も費やした)、いま=かけがえがない=いまの直前・いまの直後・昨日・明日と代替不可能、ならば、何を書いても「いましか書けない」(いま書くものを昨日書けるわけがない;論理的に。明日書けるわけがない;もう書いてる)ものである、ということでもありましょう。


一方、今回の記事を歴史的に推理すると、若くして俳句を始め、「俳句甲子園」なる高校生イベントに参加した福田若之は、冒頭のような俳句クリシェ・文芸クリシェ・教育クリシェに、べったりとまとわりつかれて過ごしたはず。そら、いやにもなるし、警告も発したくなる(推理ですよ、類推ですよ)。くわえて、というか、だから、というか、彼の属した開成高校俳句チームが終始拒否してきたのが「高校生らしい俳句」なわけで、今回の記事は、そんな歴史的背景があると思うのですよ。

■外階段:恋ヶ窪あたり

東京西郊には「窪」の付く地名が多い。《さやうなら笑窪荻窪とろゝそば 攝津幸彦》の荻窪もそうだし、多喜窪通り、芋窪街道なんてのも、うちの近くを走る。

恋ヶ窪は「恋」入りで、ちょっと俳句にしたくなる地名じゃないですか?

(写真は窪とはまったく無関係なのですが)


2017/08/02

■思い病・思い信仰

思い病・思い信仰の蔓延は、俳句だけではなく川柳も同じ事情の模様。

http://senryusuplex.seesaa.net/article/452295459.html


あなた(作者)の「思い」なんぞに、わたし(読者)はなんの興味もない。

そのことを、何度も繰り返し伝えていかないと、思い病・思い信仰はなくならないのでしょう。

そもそも、なんでまた、自分(作者)の思いに他人(読者)が興味があるなんて思うのか。これはそうとうに不思議です。

追記:
なお、佳人のみなさまに置かれましては、「思い」を、川柳・俳句ではなくリアルに伝えていただければ幸甚に存じます(おっさんは要らんぞ)。

2017/08/01

■終電のこころもち 『街』第126号より

終電の吊り広告の青田かな  今井聖

俳人協会的には無季の句、大丈夫なんですか。聖さん、理事でしょう?

ってつまらない戯言は置いといて、終電の都会・夜と青田の田園・昼の対照があざやか。終電は、帰宅の列車。遠い場所へ意識がうつろう、その心理的な対照も伝わる。

掲句は『街』第126号(2017年8月1日)より。