2017/05/14

■句会は必要か?

俳句をつくっていくうえで、句会が必要不可欠かどうか。

それは人による。

(あたりまえですみません)

『フラワーズ・カンフー』を読んでいて思うのは、句会って本当に必要なのかな、って。この人の句は句会を通過しているとは思えないから。
小倉喜郎ブログ「HAIKUMAN」2017年5月8日http://haikuman.seesaa.net/article/449698398.html

小津夜景さんの句会経験は私の知る限りリアルで1.5回(0.5回というのは私がご一緒した句会。時間の都合で途中までだった)、ネットで0回。『フラカン』に限らず、どの句も句会を通過していない。

句会をやらない俳人といえば、最近のわりあい近いところで、高山れおなさんと関悦史さんが思い浮かびます(正確な知識ではありません)。

この3人、高山れおな、関悦史、小津夜景に共通するのは、ひじょうにユニークな句集を出していること。ハードウェアをいうのではありません。句がユニーク。類を見ない。

3人の方の句作については評価・好みが分かれるでしょうが、「ほかにない」ということは共通して言える。

こうした事実を踏まえて、まえまえから思っていることなのですが、言語的運動神経が抜群で、卓越した理解力をもっていれば、つまり俳句のセンスが人並み外れて優れているならば、「句会」に出ないほういがいいんじゃないか



句会には、標準化の機能があります。

これによって、はじめは箸にも棒にもかからなかった句作のレベルを、ある程度まで引き上げてくれる。俳句をつくろうとする人の99.9%は人並み外れた俳句センスなど持ちあわせていないので、句会はとても有益です。

一方、標準化は〈ありきたり〉を量産します。真にユニークな句作には、なかなか到らない。

句会では、どうしてもウケる句をめざしがちです。人情として、他人の目・他人の評価を気にしてしまう。〈埒外〉の句が生まれにくい。

〈もともとは誰にも似ていないユニークなセンス〉があったとしても、句会の相互評価のなかでが標準化されていく。結果、うまく行っても、どこにでも一定数いる「俳句のそこそこじょうずな人」が出来上がるだけ。そんなケースが隠れているのではないかと思っているのですよ。

なお、句会を通過してユニークな句作に到達する人もいないわけではありません。為念。

付け加えるに、句会を経験しなければ、誰でもユニークな句が出来るかといえば、あたりまえだけど、まったく違います。他人の評価を濾過しない、箸にも棒にもかからない句を作りつづけることになるでしょう。

かなしいっちゃかなしいけれど、本人が楽しければ、それでいいんです。これは皮肉でもなんでもない。そして、本人が楽しいのがいちばん、というのは、句会も同じです。



というわけで、句会三部作っぽくなった。

句会は楽屋・ワークショップ
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/12/blog-post_14.html

葬り去る句 句会の濾過機能
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/12/blog-post_15.html


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