2017/05/30

■なぜにみなさん、こんなにも「意見」が好きなのか?

むかし、友人が大学で学生にレポートだか試験問題だかを課した。分野は社会科学。テーマは忘れた。なんでもいいや、「家族とは?」とかね。

すると、「意見」だらけのレポートが大量にやってきた。

友人は、目を通しながら、キレた。「誰が『おめえの意見を聞きたい』と言った?」「誰がそんなものを読みたい?」

ちなみに、そこは、いわゆる入試難易度がまあまあ高い大学。

こんなもの読んでられない、もうヤだと考えた友人は、次の課題のとき、「自分の意見を1行でも書いたら、単位はあげない」と宣言したそうな。

友人、ナイス。



社会科学のレポートとはすこし違う話ではあるのですが、福田若之さんの話題沸騰記事、

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html

このコメント欄を見ると、みなさん、「意見」が大好きの模様。

「ふくだくんは自分の意見をゆってるからえらい」

「自分の意見」に過度な価値を置くという風習は根強いようでです。



意見をもつ、意見を表明するのは、いいことです。きっと。

でも、記事に意見がなくてはいけない、なんてことは、ぜんぜんない。

「記事に意見があっちゃダメ」とは言いませんが、なくてもいいものです。優先順位はきわめて低い。「意見」が賛成か反対か、是か非か、なら(実際、ほとんどの「意見」はそこに集約される、とどまる)、リモコンの押しボタンや挙手や投票でいい。

この手の記事で、意見に優先するものとして、論理〔*〕は言うまでもないこととして(明快がよろしいです。韜晦、詭弁etcを含んで良し。通しで見て明快なら)、口調・語調の選択(好みもあるけど、軽快がよろしいです)、愛嬌(これは記事や文章に限らず、欲しい。どんなに怒ってても、どんなに悲痛でも、愛嬌がほしい)、笑い(サービス精神は美徳)等々。意見は、それらに優先しない。

(福田記事に、論理は、ある。愛嬌や笑いは足りない)

ともあれ、この「自分の意見」への過信はいったいどうしたことなのでしょう? そう教育されてきたのか? 不思議です。


〔*〕論理の一語が含む要素は多様。理路、課題の整理、論点の整理、敷衍、対象にするものの価値の摘出、同じく齟齬・瑕疵・矛盾の指摘、水平・垂直の参照(つまり地理的・歴史的視野をもつということね)などなど。

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