2017/05/31

■虹からふらここへ 歌仙「自転車」解題〔畢〕

七吟歌仙:自転車の巻

承前

ずいぶん間があきました。解題、忘れていたわけではないのです。

(…)

すんまっせん! 忘れてましたぁ!

さて、すでに名残裏に入り、いよいよクライマックスかつ物語の収束へ。 

虹のむかうに靴放り投げ  

全句の「歩」(将棋)から靴。巧みで軽やかな付け筋。



牛頭馬頭とヒッチハイクで品川へ  

靴を投げて行き先を決めたような一場面から、行き先(品川)と同伴(牛頭馬頭)と方法(ヒッチハイク)を指定。現在の品川だけじゃなく、品川宿の趣きも。

もつとひかりを(レモンヱロウの)  

どう付いたのか忘れたが(無責任)、夜になっちゃって道が暗いみたいにも読めて、面白い。ゲーテ臨終のことばが原典だから、名残裏に死はまずい、ということも言えるんだけれど、ここはまあオッケー、と(融通無碍、いいかげん)。

剝落の花となりたるフレスコ画  

ひかりから絵画、それもフレスコ画への展開はきれい。前句のある種破綻から、流れを落ち着かせ、なおかつ花の句として美しい。

千年かけてふらここを漕ぐ  

長大な時間にふわっと付けて、あざやか。「漕ぐ」で、発句の自転車に立ち返り、36句が円環を成す、という、素晴らしい挙句。これにはうなりましたぜ。

というわけで、巻くよりも時間がかかったんじゃないの? という解題。これにて「終わり」でございます。

また、頃合いを見て、巻きたいですね。そのとき、どんな連衆(メンバー構成になるかわかりませんが)、よろしくお願い申し上げます。

■酢海鼠 『クプラス』第3号より

同時代生きてくれたる海鼠に酢  杉山久子

生きてくれたんだけれども、いまはもう死んでる。切り刻まれて、酢のものに。口の中へ、胃袋へ。

口調は心優しいが、つまりは酷薄。

この種の酷薄は、俳句がいいかんじに機能する領分であります。

掲句は杉山久子「穴」より:『クプラス』第3号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/14_36.html

2017/05/30

■なぜにみなさん、こんなにも「意見」が好きなのか?

むかし、友人が大学で学生にレポートだか試験問題だかを課した。分野は社会科学。テーマは忘れた。なんでもいいや、「家族とは?」とかね。

すると、「意見」だらけのレポートが大量にやってきた。

友人は、目を通しながら、キレた。「誰が『おめえの意見を聞きたい』と言った?」「誰がそんなものを読みたい?」

ちなみに、そこは、いわゆる入試難易度がまあまあ高い大学。

こんなもの読んでられない、もうヤだと考えた友人は、次の課題のとき、「自分の意見を1行でも書いたら、単位はあげない」と宣言したそうな。

友人、ナイス。



社会科学のレポートとはすこし違う話ではあるのですが、福田若之さんの話題沸騰記事、

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html

このコメント欄を見ると、みなさん、「意見」が大好きの模様。

「ふくだくんは自分の意見をゆってるからえらい」

「自分の意見」に過度な価値を置くという風習は根強いようでです。



意見をもつ、意見を表明するのは、いいことです。きっと。

でも、記事に意見がなくてはいけない、なんてことは、ぜんぜんない。

「記事に意見があっちゃダメ」とは言いませんが、なくてもいいものです。優先順位はきわめて低い。「意見」が賛成か反対か、是か非か、なら(実際、ほとんどの「意見」はそこに集約される、とどまる)、リモコンの押しボタンや挙手や投票でいい。

この手の記事で、意見に優先するものとして、論理〔*〕は言うまでもないこととして(明快がよろしいです。韜晦、詭弁etcを含んで良し。通しで見て明快なら)、口調・語調の選択(好みもあるけど、軽快がよろしいです)、愛嬌(これは記事や文章に限らず、欲しい。どんなに怒ってても、どんなに悲痛でも、愛嬌がほしい)、笑い(サービス精神は美徳)等々。意見は、それらに優先しない。

(福田記事に、論理は、ある。愛嬌や笑いは足りない)

ともあれ、この「自分の意見」への過信はいったいどうしたことなのでしょう? そう教育されてきたのか? 不思議です。


〔*〕論理の一語が含む要素は多様。理路、課題の整理、論点の整理、敷衍、対象にするものの価値の摘出、同じく齟齬・瑕疵・矛盾の指摘、水平・垂直の参照(つまり地理的・歴史的視野をもつということね)などなど。

■備忘録:回文「昆布烏賊」

回文俳句は、20世紀の終わり頃の一時期、少しだけ作ったことがある。回文大魔王として知られる井口吾郎さんが近くにいたこともあって、たくさん作る気にはならなかった。吾郎さんひとりで供給は足りている。

備忘録として、掘り起こしたマイ回文俳句を。

何億個葬列を連れ嘘こく女 10key(以下同)

「嘘こく」は関西弁。この句が最初だと思う。「嘘こく」でもういっちょ。

馬齢嘘こきあの矢野顕子総入れ歯

こちらは人名も入った。

関西弁だと、

昆布みな猥褻でつせ岩波文庫

これは自分で好き。昆布は猥褻なかんじがするし、岩波文庫とうまく照応。

あといくつか。

魔の言霊いきつつ月いまだ床の間

気圧は苦しきシルク初秋

自由律ふう。

烏賊食はば残るこの場は苦界

椎の実や野分の際の闇の石

季重なりのオソマツ。


2017/05/29

■くにたち句会、無事終了

到来物。虫関連は初体験なれど、美味しくいただきました。


手巻き寿司をみなでたいらげる。


2017/05/28

■素足/裸足の冒険譚 『豆の木』第21号より

素足つながりで。

ハイヒール履いてここまできて裸足  岡田由季

魚のように放つよ夜更しの素足  月野ぽぽな

素足/裸足の解放感。1句目が第一段階、2句目が第二段階。2段式ロケットのように、解放にはずみがつく。

2句並べると、足と肢体の物語のようにも思えてくる。どちらの句もとても好きですが、並べるとさらに魅力を増すのであります。

掲句はともに『豆の木』第21号(2017年5月5日)より。

2017/05/27

■サキソフォニック 『クプラス』終刊号から

ゴーゴーバーとゴーゴー喫茶の違いは、ゴーゴーガールの有無。……かなあ。断言はできませんが。半世紀以上も前の話ですが。

サックスのぐるりに映り素足なる
  阪西敦子

ゴーゴーガールのミニスカート、あるいはパンタロンの中身が素足だったのかどうか。そういう問題ではないような気もしますが。

(だいたいにして、ゴーゴーなんて、この句のどこにも書いてないし)

サキソフォンの外観のテカリ・ヌメリ、音のノタウチに、素足(の動き)が乗っかる。

(「ぐるりに」がいいのです、きっと)

あっさりした作りなのに、サキソフォンのサキソフォンたるサキソフォン性が横溢。



そういえば、ヴァン・モリソンのライブ盤「ア・ナイト・イン・サンフランシスコ」の途中、いったいなんべん「キャンディー・ダルファー!」と叫ぶんだ? というくらい叫びまくる箇所が1曲ならずあって、つまりキャンディー・ダルファーのサックス・ソロのたびに叫ぶ。

むかし、この女性サックス奏者がデビューしたとき、金髪で綺麗なおねえさん、といったルックスのせいで、そうとう軽んじていた。どうせ見た目でデビューができて、人気があるのだろう、といった過小評価〔*〕。ところが、今になってみると、内実(音)がとてもいい。ヴァン・モリソンが名前を叫びたくなるのがわかる気がする。


〔*〕参照:『魅力的な容姿』の科学者 『能力が劣る』と思われやすい研究結果


2017/05/25

■夜の扁桃腺

扁桃腺腫らしてコレコソガ夜  瀧村小奈生

扁桃腺が腫れること=夜。この等式は、たいそうおもしろく、等号記号にあたる「コレコソガ」には、カタカナの使い途だなあ、と感心。

この句を掉尾とする8句連作のタイトルは「射干玉の」。ぬばたまを最後の句で受け止めるという構成。

≫瀧村小奈生「射干玉の」:川柳スープレックス
http://senryusuplex.seesaa.net/article/449482665.html

■甘酒ブーム継続中

嫁はんの甘酒ブームは継続中。

参照記事≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2017/05/blog-post_4.html

ただし、ブランドに関しては浮気性。


2017/05/23

■続篇が本篇よりも長大かつ面白いという倒錯 福田若之のオモテとウラ

このあいだ、福田記事のダメなところについてちかぢか書くと言いましたが、ウラハイに載った福田若之「〔ためしがき〕滑って転んじゃった話」

http://hw02.blogspot.jp/2017/05/blog-post_23.html

これが面白いので、私のはもうどうでもいいかな、と。

それに、「ダメ」というより、「こういうやり方は好きではない」と思った箇所は、週俳掲載時にはなくなっていた(楽屋話になるが、掲載の前に「読んでくれ」と言われて読んで、すこし感想を伝えた)ので。



ウラハイ記事の細かいところに反応しておくと、
天気さんは僕の書いたものに「《名誉欲にまみれた老人・中年 vs 俳句をことをマジメに愛する》という構図の絵」を見てとろうとしているけれど、これはあまりにもプロレス化しすぎじゃないだろうか。
たしかに、レッスルさせすぎの傾向。私んなかにある。認める。

でも、このツイートの「老人・中年」は、有馬朗人だけではく、その周囲の老人・中年(あるいは若年も含む)を指しています。だから、「有馬さんって(…)見境なしに夢を追っかけちゃってるだけ」(福田)という見方に反対はしない。迂闊な人なんだろうなあ、と想像します(良い意味でも悪い意味でも)。

4団体の人たち全員が、今回の「俳句を無形文化遺産に」の宣言と運動に連なる人たちではあるわけですよ。

現代俳句協会青年部は、今回の件をテーマにシンポジウムを開けばいいのに、ね。

たぶん行かないけど。


もうひとつ。
協会を抜けるというアクションを起こしていた四ッ谷龍さんについては追記して、そもそも協会に入っていない西原天気さんについては何ら追記しなかったのも、結局は、ひとえに僕個人のこの「不安」に関わってのことだったと今にして思う。そりゃ、たしかに「大笑い」だ)
これはもっと現実的にね、個々について「アクションを起こしていた」事実を知るたびに訂正していたら、大変だぞ、という意味合いのほうが強かった(誤解を招きやすいツイートだったですね。私は、いいんですよ。私が協会に入っていないことに、それほど意味はないし)。

それよりも、前の記事で書いたように、ツイート(さえずり)はアクションではない、と捉えるのは、私にはちょっとわからない。こちらのほうが重要。


もうひとつ。

有名人・言論人etcの人名への言及は、呼び捨てが原則。「氏」も「さん」も要らない。

このルール、最近、崩れちゃってるけどね(この話題はまたあらためて)。


最後に、ひとつ。
僕がなんでそんなに「個人の感想」にこだわるのかというと、結局、僕は、それが全体主義的なもの(忘れないでおきたいのは、それがしばしば善意の塊によって発生するということだ)の一切に対する反対物になりうると信じているからだ。
「個人の感想」という立脚点はだいじだと思うけれど、個人がどこを見ているかが重要、という考え方を、私はしちゃう。

「自分」を見ているぶんには、何に抗しても、ルサンチマンをひきずる。

「公共」を見るとき、個人の感想に「義」が宿る。私は、「義」のある見解を支持する。「義」が好き。

もっとも、福田若之はこれを全面否定するかもしれない。それこそが「善意の塊」として機能する全体主義なのである、と。

■続おるがん 『オルガン』第9号より

オルガンの奥は相撲をするせかい  鴇田智哉

やっぱり、オルガンは「野」なのだ。

掲句は『オルガン』第9号(2017年5月1日)より。

2017/05/22

■おるがん 『オルガン』第9号より

あたたかいオルガンのなか迷子になる  福田若之

オルガンに、同じ鍵盤楽器のピアノにはない温かさがあるのは、機構の違い。ピアノは叩き、オルガンは吹く。オルガンの内部に空気を感じるからだろう。

管もまた感じるので、迷子も、よくわかる。

オルガンは野、密閉された野にも似ているかも、ですね。

掲句は『オルガン』第9号(2017年5月1日)より。

2017/05/21

■白鳥✕白鳥✕白鳥 『豆の木』第21号より

『豆の木』第21号から白鳥の句を抜粋。

(暑い夏に向かうこの時季に、どうもすみません)

息深く吐けと白鳥渡り来る  鷲巣正徳

白鳥が来ているセブンイレブンの窓  こしのゆみこ

頭から外れて皿は白鳥に  近恵

身体の深部と飛翔の呼応。えらくカジュアルな窓と白鳥。最後は、脳天から白鳥が飛翔。

3句並べたら、1句1句とは違う、またそれぞれの10句作品とは別の感興が。

■終わり?

週刊俳句・第526号は、
まるごと『ku+ クプラス3号』(終刊号)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/5262017521.html

揃った原稿を紙にせず、ウェブ(週俳)にして、終刊にすると、信治さんから聞いたときは、びっくりしました。難航はしても、第3号が出て、第4号以降があると思っていたので。

創刊当時のことを思い出すと、「なぜ同人制にするんだろう? 高山れおな+山田耕司+上田信治編集というスタイルのほうがおもしろそうなのに、動きも自由なのに」と、外から見て思ったように覚えています。

終わりの時期には思い出話が多くなります。いつかの「俳人地図」みたいな記事で、

  私「統治の欲望wですな」
  信治さん「意地悪を言いますね」

といったやりとりがあって、それを見た某ベテラン俳人が「信治さんと天気さんは、もうダメなのかしら(関係は修復しないのかしら)」と心配されていると聞き、自分ひとりで大いにウケたことでした。

あと、もうひとつ。「いい俳句」とかいうクソダサい特集を見て〔*〕、急遽、週俳で「悪い俳句」を特集したのも、いい思い出です。


いつか、『週刊俳句』が終わるときは、『終刊俳句』とダジャレかましてほしい、と、この号にある(終刊号)の文字を見て思いましたよ。

クプラスのみなさま、おつかれさまでございました。


〔*〕「悪漢俳句:断章」の最後のほうで『クプラス』の当該特集について言及しています。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/1986-2-2-1997-2-2-2-10-httpweekly-haiku.html



「まるごと」だけど、クプラス仕様のトップ写真はなく、前から用意していた私の写真。クプラスじゃない人間がひとり混じっちゃって、どうもすみません、という顔をしています、この石。

2017/05/20

■俳句の無形文化遺産登録にまつわる福田記事の良いところ

福田若之さんの記事、
有馬朗人氏に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html

この記事で私が良いと思うところは、内容ではありません。「週刊俳句に書いた」ということ。そこに意義があります。

新聞記事・有馬朗人インタビューを私はツイッターで知りました。ツイッターをやっていないけれど、福田記事で、これを知ったという人もいるでしょう。それ、だいじ。いろいろな場所で知る機会が生まれるのは、とてもいいことです。

だから、ツイッターで「言葉少なにつぶやくだけ」(福田)でも意義があると、私などは思うのですが、福田さんはそうは思わない模様(後述)。

ちなみに、「僕にはそのことが有馬氏の発言にもまして不穏なことに感じられる」という福田さんのセンスは、謎すぎて私には理解不能。不穏? 有馬氏の発言にもまして?(たしかに有馬氏は「不穏」というより、単に無邪気に名誉欲や権威に気持ちが向かう感じですが)

むりやり理解しようとすれば、この文言に続く内容、すなわち、つぶやいているだけじゃあダメ、「いいね」やリツイートしてるだけで「いったい何が変わるというのだろう」といった煽りを含む段と呼応しているのでしょう。

このあたりは、文言のクリシェ(紋切り型)というだけでなく、把握のクリシェ、反応のクリシェにも思えるのですが(ツイッターで不安や嫌悪をつぶやく・さえずるだけじゃダメだ! 行動に移さなきゃ! アンガージュマンだ! といった状況理解と提案・煽動のクリシェ)、それは、まあ、いいとして、さて、そこで、福田さんが、どう変えようとするのかが問題になる。

つまり、小津夜景さんが言うように(http://yakeiozu.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html)「ネットで有志を募って、さっさと四協会に公開質問状出しちゃ」うことも選択肢に含めて(それがいいとは思わないし、私は「有志」にはならないけれど)、今後のこと。

言葉少なにつぶやくだけで済ませてしまっている」と言うのであれば、「言葉多めに書き連ねるだけで済ませてしまう」ことのないような、何か。

でもね、福田記事の結語に、「ひとりひとりがもっと多くの言葉を費やしていくしかないはずだ」とある。つまり、みんなも書いてね、ボクは書いたから、ということのようです。ありゃま、なんじゃこりゃ、へなへなへな(ここ吉本新喜劇とかで使っていたトランペット)となった人もいるでしょう(小津さんもそうだったんだろう)。

けれども、私は、それでも意義はあると思う。最初に書いたように、いろいろな場所に今回の件(無形文化遺産うんぬん)を知る機会が生まれれば。

ただ、ちょっとヘンだなと思うのは、ツイッターでの発言を「済ませてしまう」と表現し、その後を悲観的に捉える一方、ある程度の長文(例えば、今回の福田記事)を「済ませてしまう」とは考えていないように聞こえる福田さんの把握・理解。

いいかえれば、ツイート(広くはSNS?)への差別意識?(ちょっと大袈裟)

私は、週俳記事>ツイート、とは考えない。

例えば、福田記事は、定義が排外を招く、と要約できますが(我流すぎる要約? そんなことはない)、そのことはすでに四ツ谷龍さんがツイッターで簡潔に述べている(前掲福田記事の末尾にリンク)。

長く書くのがいいとは限らない、ということです。

と言いつつ、この記事、ずいぶん長く書いてしまったなあ、と反省。そろそろシメましょう。

週刊俳句に、福田さんが今回の記事を書いたことに大きな意義がある。最初に言ったように、これが要点。アクセス数も多いようで、たくさんの人が、有馬インタビューを知ることになりました。

福田記事のダメなところについては、また後日。

2017/05/19

■殺陣 『豆の木』第21号より

善人も悪人も粉雪のなか  吉田悦花

これはもうチャンバラですね。

句のどこにもそう書いていないけれど。

ところで、映画『十三人の刺客』(三池崇史/2010年)では、松方弘樹ひとりが異次元の刀さばきと動きを見せ、「おお! 東映の伝統!」と観衆はみな感動するわけですが、あの映画に粉雪のシーンはなかった。

掲句は『豆の木』第21号(2017年5月5日)より。

2017/05/17

■ドラッグ解禁


急な話なのではなく、うちではむかしから解禁です。

2017/05/15

【お知らせ】5月のくにたち句会

2017年5月28日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

2017/05/14

■『蒸しプリン会議』をご希望の方に頒布いたします

『蒸しプリン会議』は、5月7日の「文学フリマ」に向けて拵えた緊急出版。B7判(91×128 mm)・8頁の小さな冊子。

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2017/05/blog-post_4.html

(文フリには行かなかったけど、ちょっと興味ある、という方に朗報)

当日は頒価100円でしたので、やはり有料ということにさせていただきます。ご希望の方は、お名前と送り先ご住所を、tenki.saibara@gmail.com まで連絡ください。お支払い方法は返信メールにてご説明さしあげます。

(100円なら、ま、いいか。『オルガン』はあんなに薄くて1000円もするんだから、という方、いますぐお申し込みください)


色はこうしていろいろあるのですが、どの色をお送りするかはこちらにお任せください(色は選べないぞ、という話)。

『蒸しプリン会議』について、もうすこし説明しておくと、太田うさぎ、岡野泰輔、荻原裕幸、小津夜景、西原天気、鴇田智哉の6名が5句ずつ寄稿。今をときめく注目の俳人から短歌業界・俳句業界のビッグネームまで、豪華な面々に、なぜか私なんぞが混じり、ほんと、不思議なメンバー構成。

題字(小津夜景)や裏モノのビジュアル、そのへんの安物プリンターで出力したかのような印字、ずれてるとしか思えないレイアウト、1冊1冊仕上がりにバラつきのある造本、つまり、とてもキュートな冊子です。


■句会は必要か?

俳句をつくっていくうえで、句会が必要不可欠かどうか。

それは人による。

(あたりまえですみません)

『フラワーズ・カンフー』を読んでいて思うのは、句会って本当に必要なのかな、って。この人の句は句会を通過しているとは思えないから。
小倉喜郎ブログ「HAIKUMAN」2017年5月8日http://haikuman.seesaa.net/article/449698398.html

小津夜景さんの句会経験は私の知る限りリアルで1.5回(0.5回というのは私がご一緒した句会。時間の都合で途中までだった)、ネットで0回。『フラカン』に限らず、どの句も句会を通過していない。

句会をやらない俳人といえば、最近のわりあい近いところで、高山れおなさんと関悦史さんが思い浮かびます(正確な知識ではありません)。

この3人、高山れおな、関悦史、小津夜景に共通するのは、ひじょうにユニークな句集を出していること。ハードウェアをいうのではありません。句がユニーク。類を見ない。

3人の方の句作については評価・好みが分かれるでしょうが、「ほかにない」ということは共通して言える。

こうした事実を踏まえて、まえまえから思っていることなのですが、言語的運動神経が抜群で、卓越した理解力をもっていれば、つまり俳句のセンスが人並み外れて優れているならば、「句会」に出ないほういがいいんじゃないか



句会には、標準化の機能があります。

これによって、はじめは箸にも棒にもかからなかった句作のレベルを、ある程度まで引き上げてくれる。俳句をつくろうとする人の99.9%は人並み外れた俳句センスなど持ちあわせていないので、句会はとても有益です。

一方、標準化は〈ありきたり〉を量産します。真にユニークな句作には、なかなか到らない。

句会では、どうしてもウケる句をめざしがちです。人情として、他人の目・他人の評価を気にしてしまう。〈埒外〉の句が生まれにくい。

〈もともとは誰にも似ていないユニークなセンス〉があったとしても、句会の相互評価のなかでが標準化されていく。結果、うまく行っても、どこにでも一定数いる「俳句のそこそこじょうずな人」が出来上がるだけ。そんなケースが隠れているのではないかと思っているのですよ。

なお、句会を通過してユニークな句作に到達する人もいないわけではありません。為念。

付け加えるに、句会を経験しなければ、誰でもユニークな句が出来るかといえば、あたりまえだけど、まったく違います。他人の評価を濾過しない、箸にも棒にもかからないまま作りつづけることになります。

かなしいっちゃかなしいけれど、本人が楽しければ、それでいいんです。これは皮肉でもなんでもない。そして、本人が楽しいのがいちばん、というのは、句会も同じです。



というわけで、句会三部作っぽくなった。

句会は楽屋・ワークショップ
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/12/blog-post_14.html

葬り去る句 句会の濾過機能
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/12/blog-post_15.html


2017/05/13

■土竜と鍵盤 『豆の木』第21号より

もう鍵盤がない息のない土竜  宮本佳世乃

ピアノの鍵盤は通常88鍵。下はA、上はC。その範囲の外に行けば、「もう鍵盤がない」。

と解釈してみるものの、この句の前半が言わんとすることに近いかどうか心許ない。よしんば音域の話だとしても、だから何という明示はない。

けれども、この欠損の感触は、妙に身体に来るところがある。

「息のない土竜」の「息」は、声を媒介としてピアノとつながるといえばつながる。超低音域・超高音域まで行かなくとも、声や息が鍵盤についていける範囲は知れている。ここでも、不可能や欠損のイメージに覆われる。

けれども、息の話ではなかった。息絶えた土竜がごろりと転がっている。

俳句の描写がもっぱら対象としてきた景や感情とは別のものが、この句にはあるような気がして、アタマを離れない句。

対句に近いが「ない」の用い方でズレをつくっている趣向も、なかなかにオツ。


なお、宮本佳世乃の連作「おはやう」には、ほかに、《素数から冬の書店に辿りつく》《口中に光る雲雀の落ちてくる》など、いわゆるわかりやすさ・意味了解性を忌避する/から自由であろうとする句が大半。いずれもおもしろく、作者のこのところの充実ぶりが伝わる。しかしながら《鍵盤と土竜》の句に比べて、どこか既視感が漂うのは、前者が「素数」という概念の擦り切れ感、後者が季語の負の働きによるものか。

ついでに言うと、無季の句、

二階建てバスの二階にゐるおはやう  宮本佳世乃

は、田島健一《西日暮里から稲妻みえている健康》を思い出さざるを得ない作り。バカバカしいまでの健やかさという点で、勝るとも劣らず。


掲句は『豆の木』第21号(2017年5月5日)より。

【参考】土竜の句
http://hw02.blogspot.jp/2013/03/blog-post_14.html

2017/05/11

■湖のこと 『豆の木』第21号より

近づいて消えるみづうみ靴の底  山岸由佳

逃水の言い換えとも読める、この「近づいて消えるみづうみ」。「近づくと消える」ではなく「て」という軽い切れでつながれているので、散文的な意味の連なりから、すこしずれる。

いずれにせよ、湖が消えるという事態は尋常ではなく、そうした幻想的な事象のあとに来るのが「靴の底」。親しくカジュアルなブツは、前半との対照であると同時に、「近づいて」を受けて、主体の動きを強調する。

この「靴の底」、いいですねえ。

あるいは、スヴェン・ヘディン『さまよえる湖』で知られるロプノールもちょっと連想したりして、その場合も、「靴の底」へと、はるかなものから足下へと帰結する瞬間が、とてもおもしろいのであります。

掲句は『豆の木』第21号(2017年5月5日)より。

2017/05/10

■ソクラテスから人工知能へ 歌仙「自転車」解題〔4〕

七吟歌仙:自転車の巻

承前

さて。ちょっと間があいてしまいました。

恋から離れるところからです。

剝製のやうに無害なソクラテス  

前句《ふたりで金の孔雀を飼はう え》の孔雀から剝製。「やうに」ではなく、ソクラテスが無害な剝製になっちゃう、という作りでもよかったですね。

そういえば、根津から本郷方面へと降りていく坂の途中に剝製屋がありました。さすが東京大学のそば。由緒のある会社らしいです。

防腐剤から望月こぼれ  

秋・月の座。「剝製」から防腐剤。月から防腐剤がこぼれるという作りにもできますが、ここでは防腐剤から月。袋から満月がひとつころんとこぼれるようで、オツ。

猿酒を譲つてくれるかものはし  

なぜ、かものはしが猿酒を持っていたのか? 謎です。

謎はだいじ。とりわけ歌仙では。

長椅子にぽつねんと虫売  

「譲る」から、席、椅子。虫売りは、いつでもどこでもあやしいので、便利。歌仙のおけるユーティリティ・プレーヤー。「ぽつねん」はあまりに擦り切れた措辞ですが、まあ、許していただくとして、いよいよ、名残裏に突入。

歩を成らす人工知能負かすため  

長椅子から縁台将棋を発想。AI棋士は時事的でもあります。

(つづく)

2017/05/04

■甘酒プリン、および文フリ出展のお知らせ

最近の嫁はんのブームは甘酒。


ショットグラスでぐびっとひとくちで。

このブーム、いつまで続くことやら。

でもね、大正屋醤油店のこれ、ほんと、美味しいんですよ。



『蒸しプリン会議』は「文学フリマ」向け緊急出版。B7判(91×128 mm)・8頁の小さな冊子。頒価100円。

某日、これを自室で作る。レイアウトして安物のインクジェットプリンターで出力して、折って切って畳んで。

太田うさぎ、岡野泰輔、荻原裕幸、小津夜景、西原天気、鴇田智哉(アイウエオ順)という謎の構成メンバー。

だいたいにして「蒸しプリン会議」という名称がヘン〔*〕、冊子の体裁がヘン。掲載句もみんなちょっとヘン。

なお、5月7日(日)当日、週刊俳句のブースには、生駒くんと福田きゅんがほぼ常駐。私は開店の11時と閉店・撤収の17時には確実にいます。

17時以降、打ち上げを兼ねて、その場にいる人と句会・飲食がしたい。気が向いたら、17時の前に、会場へ、週俳ブースへ、おいでください。いっしょに遊びましょう。


〔*〕この名称、かなり好いております。

2017/05/03

■夏が

駅裏のへんな形にからまった自転車を見て泣いたはつなつ  佐藤りえ

夏が来ますねえ。

掲歌は佐藤りえ歌集『フラジャイル』(2003年11月/風媒社)より。