2017/01/30

■Dance the Night Away くにたち句会始末記

くにたち句会、無事終了。

句会後の飲食の果て、残ったメンバーでディスコ状態。



■鶴の糞

鶴凍てて花のごときを糞りにけり  波多野爽波

鶴の糞はおおむね白い。食べるものによって色合いは違い、例えば、餌付けの餌によっても違ってくるらしい。

すっくとした立ち姿から、花の白さの糞が落ちる。輝くような一瞬なのだろう。

凍鶴だからといって、糞が凍てついているわけではない。それ相応の温度もあって、周囲の寒冷との対比になっている。

掲句は『湯呑』(1981年)より。


2017/01/29

■無毛教授?

Medeski Martin & Wood - Professor Nohair

2017/01/27

■ニワトリ 『絵空』第18号の一句

『絵空』第18号(2017年1月15日)より。

冬日向放たれて鶏動かざる  中田尚子

ニワトリをケージや飼育場以外で見ることは、今はほとんどないかもしれませんね。農家の庭に放たれたニワトリを見たことがない人も増えていくでしょう。

ブロイラーでも大量生産卵用でもないニワトリを「鶏」と呼ぶのでしょうけれど。


祭りの夜店で手に入れたヒヨコを家の中で成鳥にまで育てた知人がいました。よくなついて、歩くと、あとをついてきたそうです。

【再掲】【お知らせ】1月のくにたち句会

2017年1月29日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

2017/01/26

■ぽっと出の「ぽ」 田島健一『ただならぬぽ』余談


句集『ただならぬぽ』のタイトルになった、

ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ  田島健一

を見たとき(おそらく2014年)、『月天』第5号(2001年)所収の次の一句を思い出した。

待乳山ぴ人形焼のやぶにらみ  井口 栞

発明された切れ字としての「ぴ pi」(≫参照過去記事)。

田島健一がこの句を知っているとは考えにくく、前掲句の「ぽ」は、ネット用語の「ぽ」がから来ているのだと思っていた。

だめぽ (≫google検索

ぬるぽ (≫wikipedia

…の「ぽ」。

ところが、いつだったか田島氏にこの件を訊いてみると、「だめぽ」「ぬるぽ」の「ぽ」でもないらしい(ほんとうにそうじゃないのか、はぐらかされたのかは不明)。

この、ただならぬ「ぽ」は、つまり、出自を持たない、ぽっと出の「ぽ」であるらしい。あるいは、海月が尻にくっつけてきた「ぽ」(それにしても大した出自ではない)。


2017/01/25

■名曲名唱

2017/01/24

■冒頭集:生命

ソルタレラ号は氷山のあいだを縫うように進んだ。私は、激しく上下する小型船の船べりから身を乗り出し、北極海の清冽な水のなかをのぞきこんで驚いた。ここにこれほどの生命がひしめきあっていようとは、思ってもいなかったからだ。極北の海には、種々雑多な生物が満ち満ちていた。まるで豆つぶのような、橈脚(かいあし)類と呼ばれるちっぽけな甲殻類が、何千個もまとまって海面近くを泳いでいた。
リチャード・フォーティー『生命40億年の歴史』1997(渡辺政隆訳/2003年/草思社)

2017/01/23

■冒頭集:洋館

若し4だとすれば、斜線はそのままにして、たての線とよこの線を伸ばす。Aならば、凭れ合っているどちらか一方の線を延長します。そんな形になった辻が、私の通学の道すじにあって、まんなかの三角形の区劃内に、三角形の玩具のような洋館が立っていました。二階建でしたが、私にはその形をしたマシマロウのように思えて仕方がなかった。というのは、全体が薄い緑色に塗られて、しかも相当に年代が経ってペンキに粉がふいていたからなのです。
稲垣足穂「夢がしゃがんでいる」1923:『タルホ神戸年代記』(1990年/第三文明社)

2017/01/21

■みなみ 田島健一『ただならぬぽ』を読み始めた

田島健一句集『ただならぬぽ』は、すこし読んだだけですでに〈ただならぬ〉句集であり、同時に、きわめて〈ぽ〉な句集であることがわかりました。そうとう楽しめそうです。

老人病棟みなみひらけば南風  田島健一

この句集を語るにこの句から、というのは、どうかと、自分でも思いますが、こういうわかりやすい句も入っているというのは、すこし驚きです。この句の前のページ(p13)も明瞭でわかりやすい句。意外に読者の事も考えているのかもしれませんね、田島さんは。※このあたり冗談ですから、気にしないように。

さて、掲句。

いなびかり北よりすれば北を見る   橋本多佳子

と対を成すような、明快な〈当たり前〉。

多佳子のこの有名句が入っているのは第3句集『紅絲』。1951年の刊行です。66年の時を経ての「老人病棟」。若かった国が老いるのに充分な時間といえるのかどうか。よくわかりません。





2017/01/20

■カモメとか廃屋とか

週刊俳句・第508号に、

終わらない散歩 小津夜景『フラワーズ・カンフー』 を寄稿しました。

エピグラフ(紀野恵の短歌)は、ずいぶん前、この句集を読んですぐのときに決めていました。ここは「やったぜ!」という感じ。

本文では、「三鬼、ぎゃふん」「人間ではなく狼に育てられた子」の2箇所を自分で気に入っています。

書き終えて、最後に、タイトル(終わらない散歩)で難渋しました。ほんと、むずかしい。これだ、といったぐあいには決まらなくて、妥協。ちょっとくやしい。

ひとつ、このレビューでだいじなことを書き忘れていた。

夜景さんの句は、調べがいい。

何度か書いたけれど、「調べ」とは韻律や音だけではありません。もちろんそれもあるのですが、語と語のつながりがつくりだす感触、語と語のつながりの纏う意味が調べに寄与する、邪魔しない。その意味での調べです。



余談。

『フラワーズ・カンフー』の冒頭の句にあるタブラ・ラサ。これについては悪い思い出があります。

俳句を初めて数年、結社にいたとき、何十句かの未発表句を対象にした結社内の賞に応募したことがあって、その句群のタイトルに「タブララサ」と付けたわけです。

審査結果が発表になって、見ると、選考委員のベテランがこのタイトルに触れている。

こちらとしては、俳句を始めてまもないから白紙状態というのはその気分に合っているし、ちょっとオシャレっぽいし、と軽い気持ちでしたが、どうもお気に召さなかったらしい。辞書を引いて意味を説明までしてくれながら、苦々しい口調。

タブラ・ラサとか(それから『フラカン』で隣りにある千年王国とか)、社会科学系の読書をしていたら、それほどめずらしくもなく登場する用語であり、ネタです。でも、耳慣れない人、初めて見たという人も多いのでしょう。邪推をすれば、そのベテラン俳人は、自分の知らない語が出てきたのがおもしろくなかったような感じでした。

それ以来、タイトルは、誰にでもわかる語にしようと決めました(例:けむり)。でも、ときどき、いたずら心が首をもたげて、その結社誌の自選5句のタイトルに「糸脈」とかと付けて、喜んでいましたよ。

とまあ、思い出話ですが、『フラカン』は冒頭に「たぶららさ」。わりあいチャレンジングな始まり方なんですよね。

「どう読もうが知ったことか」みたいな姿勢(好き勝手)が、あのキュートな雰囲気の一冊の中にあって、それが私には好ましいののですけれど(≫過去記事参照)。



2017/01/19

■青

吸い取り紙は必須。


もうすぐ底をつく。


2017/01/18

■ダメ! 顔に貼っちゃあ 杉山文子『百年のキリム』の一句

青蛙ほどの重さや顔パック  杉山文子

青蛙を顔に貼り付けたことがあるような物言いが、可笑しい。

実際そんな素敵な経験があるのであれば、顔パックでそれを思い出すのも不思議ではないとはいえ、なんだか可笑しいし、経験がなく想像だとしたら、重さの比喩、重さの単位に「青蛙」は可笑しい(1アオガエルは何グラムだろう?)。

おそらく重さは「軽さ」のイメージで、顔パックをしながら、小さなかわいらしいカエルのことを思っているという句。

そういえば、顔パックから目だけ見えるところ、カエルの顔に似ていなくもない。

なお、ニホンアマガエルは体表から毒を分泌しているらしいので、絶対に顔に貼り付けてはいけない模様。


杉山文子『百年のキリム』(2016年10月/金雀枝舎)
http://hiniesta.blog42.fc2.com/blog-entry-22.html

■「に」と「の」 些末なノウハウ論

ふじみん」さんのツイート。


「に」へのダメ出し、俳句世間で多いですよね。「の」に推敲/改稿/添削?

拙句でおもしろい例。

白南風や潜水服の中 10key『けむり』

某俳人:「に」は説明的だからダメ。

わたし:じゃあ変えましょうか。

白南風や潜水服の中

??? なんか意味が変わっちゃいましたね。

「中の人」www……こっちのほうがおもしろいかも。



ツイートもしましたが、句によって、「の」「に」は選べばいい話で、一般化はできない。

ただ、指導する人の気持ちもわかる。すぐ「に」とやっちゃう人があまりに多いので、注意喚起なんでしょう。

✕✕✕(場所etc)に△△△

△△△をヘンなものにすると、いっちょあがりっぽい。あるいは、「見つけたぜ!(どや顔)」っぽい。それをたしなめているのでしょう。

2017/01/17

■俳句は、もう足りている、余っている

「俳句はもうほぼ足りている。そんなにつくったり発表したりする必要がないくらいに……。どっちかというと、余っている」

「俳句はほとんど読まれていない。結社誌が送られてきても、自分の句がどこにあるか探すくらいで、他人の句なんてほんの少ししか読まないみたいですし」

…と、昔からよく言われているお決まりのセリフが口をついて出たのですが、その酒席が結社の集まりということを忘れとった。きょとんとされて、その瞬間、その場だけ、ちょっと妙な雰囲気に。

やった! 空気、変えた。

(というと、場をわきまえず暴れたみたいに聞こえますが、おおむねすごく良い子してました)



読者よりも作者のほうがはるかに多い倒錯的状況のなか、週刊俳句は「ちっとは俳句を読みましょうよ」運動だったのです(過去形でいいのか?)といった話の流れのなかの会話でした。

で、すこしは読まれるようになったんですかね、俳句は。



「純粋読者」という俳句世間・俳句業界に独特の用語があります。作らずに読むだけの人をこう呼ぶわけですが、おかしな話で、作る人も読者にはなれる。

すべての作者が読むようになれば、読者人口と作者人口は、少なくとも同数にはなる計算。

問題は、作る人が、「読者」としてではなく「作者」としてしか俳句を読んでいないことでしょう。

(句会ではその傾向が顕著になる。句会でいくら句を読んでも読者にはなれない)

(例えば主宰は、選者として膨大な句を読むが、読者としてどれほど句を読んでいるかはわからない)

ひとりの人は、(純粋)作者であったり、(純粋)読者であったり、その同時であったりするわけですが、《読者になる》という意識や努力は、《作者になる》よりもはるかに難しいものかもしれません。



俳句は、もう足りている。

それでも俳句総合誌、結社誌、同人誌が毎月毎月次々発行される。ゴミの山にゴミを足していくようなものです。

ただ、これが無為でバカげたことかというと、そうとも言いきれなくて、俳句を読むとは、ゴミの山から(自分の)宝物を探し当てるようなところがあります。ゴミの山が日々ふくらみ巨大化していくのは、しかたのないことなのかもしれません。

とはいえ、出し放題はいけません。

私個人でとしては、出すゴミの量をこれまでよりいっそうコントロールしていく所存であります。


さて、それでは、そろそろ、踊りますか。

2017/01/16

【お知らせ】1月のくにたち句会

2017年1月29日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

2017/01/15

■冒頭集:鏡は

天然の水鏡から銅鏡へ、銅鏡からガラスの鏡へと、文明の階梯に対応した進化を遂げながら、鏡は古来様々な象徴に用いられることに耐えてきた。映すというそのいささか危険な機能の他に、輝くというさらに眩惑的な性質を備えたこの器具は、日常的な身辺の道具である以上に、本来の意味での「道具」即ち「成道の具」ともなり、あるいは逆に、自意識を増長せしめる破滅の具ともなった。
多田智満子『鏡のテオーリア』(1977年/大和書房)


■東京と東京以外であきらかに違うこと

俳句をやっていて、東京と東京以外であきらかに違うことがひとつあります。

シンポジウムや勉強会などの俳句イベントで…

  東京以外:句会がくっついている

  東京:句会ナシ

数少ない私の経験から言っているのでアテになりませんが、これまで例外はありませんでした。

この違いが何に起因するのかは、わかりません。


ま、それはそれとして、踊りましょうか。俳人は踊らなさすぎる。

2017/01/14

■俳句で「中央」だとか「地方」だとか

俳句で「中央」だとか「東京」だとか「地方」だとか、そういうセリフが聞こえてくるので、なにかと思ったら、地域性と俳句作品の関係を論じているわけではなく、俳句作者の「住所」の話。条件の有利不利といった話らしい。

あらまあ、なんとも、あさましい。


俳句は、どこに暮らそうが親しくできます。


地方とか中央とか、そんなどうでもいいことをぐだぐだ言ってないで、とりあえず踊りましょう。

俳人は、踊らなさすぎ。



2017/01/13

■パンを食べる

近くのパン屋さんは、食パンをカウンターで頼む。

「何枚切りにしましょう?」

「5枚切りで」

「耳は切りますか? 付けておきますか?」

「付けて」

食パンの端にだけ残るのではなくて、片っぽうの断面がそのままぜんぶ耳になる(これも耳って言うんですかね?)。

このパン屋さんは、優良店。


さて、4枚は、トーストにする。

使うのはフライパン。トーストにしか使い途のないトースター、そんな専門性の高い道具は要らないことがわかったので、ウチにはない。フライパンよりも美味しく焼けるわけでもないし。

耳が盛大に付いた1枚はフレンチトーストにする。



耳の歯ごたえ、白い部分(白身とは言わないんだろうな、あたりまえだけど)に卵+牛乳が一晩かかって充分に染み込んだヤワヤワの食感、どちらも楽しめる。

メイプルシロップをかけるのが一般的みたいだけど、これにしか使わないであろうシロップ、そんな専門性の高いシロップは要らないので、各種ジャムをつけて食す。

なお、嫁はんは、フレンチトーストを食べない。ハードコアな酒飲みなのであります。

2017/01/12

■川柳の自由・俳句の自由

俳句よりも川柳のほうが自由という声をたまに聞きます(逆はあまり聞かない)。

で、私がどう感じているかというと、「いいえ。ぜんぜんそう思わない」。

つくるときの束縛の多寡に関して、ルールに関してということだろうと思います。「俳句は季語を入れなくちゃダメ」とかね。

まずもって、ルールのないところに自由も不自由もない、ということはあるのですが、それを言うと、俳句のルールを因習的なものまで含めて全面的に肯定してしまうことになるので、これは撤回。「俳句のルール」について説明しましょう。


まず季語。んんとね、俳句は、季語が入っててもいいし(なんなら5つ6つ入っててもいい)、入らなくてもいい。俳句=季語が入る、というのは大きな誤解です。デマみたいなものかな。

五七五定型に関しては、川柳も同じ。ただし破調もオッケー。

次に、「なにを詠むか?」という問題。俳句の場合、詠みたいものを詠む。川柳はどうなんでしょう? よく知らない。


一方、川柳って不自由だなあと思うところがあります(間違ってたら言ってくださいね)。


まず感じるのは、句会でのウケが最優先されているっぽいこと。川柳用語で言う「抜く・抜かれる」。それが目標になる。これは、そうとう不自由。

(もっとも、俳句でもそういう態度で作っていると、同様に不自由です)


次に、何かを言わなけばいけない、といった拘束・強制。

古い川柳観かもしれませんが、たいていの句が何かを言おうとして饒舌。なかには、「反体制」「反権力」みたいなスタンスを強制されていると思しき句もある。権力や為政者への皮肉やアテコスリで悦に入っているような川柳に、「いったいいつの時代だよ」と思うことがあります。

その点、俳句は、何も言わなくていい。

反対に、叫んでもいい。「ちょっと。きみ。声でかすぎ」とツッコミは入れますけどね。


さらに、俳句は、自分(作者)がいなくてもいい。「自分という不自由」にとっつかまることもない。

(「自分という監獄から早く出ておいでよ」と思うことが、ジャンルによらず多々あります)


かようなわけで、「俳句よりも川柳のほうが自由」という俗説には、まったく与しないわけですが、いちばんだいじなことが最後になりました。

とても重要なことなので、囲みにしておきます。

────────────────────────
川柳が自由なわけではなく、俳句が自由なわけでもない。

自由は、〈自由を行使する人〉に存在する。
────────────────────────

2017/01/11

■完璧な偶景

週刊俳句・第507号(2017年1月8日)のトップ写真。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/01/507.html

※写真部分をクリックすると、大きな画像が見られます。


同じ場所に立っても、同じ落日には二度と出会えない」と、撮影した村田篠さんが言うように、夕刻の束の間、夕日の照り返しや空模様が絶妙に「絵」となったもの。この偶然の賜り物は、何時間見つめていても飽きないのだが、私がその「何時間」かのうちの相当の時間、心を奪われるものは、この写真の主たる映像とは、ちょっと別なところにある。

右手に見えるクレーンの下、おそらく工事用ブルーシートだろう、その青色。

写真に収められた「夕暮」の光景にとって、この青は、必要不可欠なものではない。広告写真なら、この部分を画僧処理によって取り去ってしまっても不思議はない(手前の電柱と電線も除去されてしまいそうだが、それはともかく)。この美しい夕暮の風景を見た、どの人も、この「青」は見ていなかったかもしれない。

けれども、ひとたびこの青が気になりだすと、この青を愛してしまうと、この写真を目にするたびに、「右のほうにある青」に心を奪われることになる。

私がこの青と出会った偶然を含め、この夕暮は、この青を得たことで、完璧な偶景となったのであります。

2017/01/10

■きちんとおかしい人たち

「馬鹿レコードbot」という愉快なアカウントをフォローしているわけです。いつもはおバカなジャケットを眺めるだけなのですが。




あまりに下品なバンド名で、「こいつら、アタマおかしんじゃないの?」と、なぜか立ち止まってしまい、あろうことか、当該レコードを調べてみると、

52曲入り、って、なに考えてんだ?


さらには、「どんな音なんだろう?」と YouTube で探してみると。

きちんとおかしい人たちでした。



観客、ほとんどいないし、なんか、ドラマーが急に持ち場離れて、客に喧嘩売ってるし。

2017/01/09

■プロレスと私 あるいは『フラカン』の短歌ページ

プロレスとの接点は、上田馬之助と誕生日が同じということくらいの私ですが、『男は馬之助―場外乱闘を生きてみろ!』(1983)は初版当時に読みました。好著です。

〔関連記事〕

小津夜景 〈身体vs文体〉のバックドロップ
http://yakeiozu.blogspot.jp/2017/01/vs.html

「川柳スープレックス」お知らせ記事
http://senryusuplex.seesaa.net/article/445690407.html

新春対談 小津夜景✕飯島章友
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/01/vs.html






小津夜景さんといえば、このあいだ憲武画伯が「夜景ちゃん」という呼び方をして、たいへん新鮮だったのですが、私はやはり「小津博士(おづはかせ)」がしっくり来ます。

で、小津博士の『フラワーズ・カンフー』、15首だけ入っている短歌がとても良くて、楽しい。



博士は、短歌をたくさん読んでいる人らしいのですが、つくったことはないそうなので、ちょっと驚きです。もっとも、『フラカン』という本に棲んでいる人(≒小津博士)は夢も現も区別のない人なので、夢のなかで何千首もつくっているのかもしれません。

で、その八田木枯頌15首「こころに鳥が」には、例えば、

心音がロールシャッハとなる夕いらして蝶の軽さに遊ぶ  小津夜景

聴覚・視覚・触覚のマルチメディア的交錯とか、「いらして」の挿入具合とか、助詞への気配りとか、なんともナイスな調べ。

ところで小津博士は、短歌に関して、直球好みの模様。

≫反スイート論、そして絶唱。
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/12/blog-post_27.html

フォークボールやナックルのように打者の手元で変化するのではなく、捕手のミットへズバンと収まる直球。そういえば、

この指は音叉でせうか音叉とは抱きあへない木霊でせうか  同

スイートではありますが、直球な恋歌。


『フラカン』は、統一されたイメージ・感触とともに、幅のある本。その幅には短歌ページも大いに寄与してるっぽいですよ。


『フラワーズ・カンフー』(2016年10月/ふらんす堂)
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_23.html

■野口・生駒のデビュー戦 『俳句』1月号の合評鼎談を読む

『俳句』2017年1月号で、生駒大祐、野口る理の若手ふたりが、片山由美子と合評鼎談。

(若手2名を合評に加えるという、かなり思い切った新趣向。拍手)

野口、生駒は、予想以上に、自然体。年長に向かっても言うことは言うという態度で、臆することなく、媚びることなく、とくだん肩に力が入るでもなく。

(編集の具合もあるのだろうけれど、もうひとつの座談会「今年、この俳人から目が離せない!」で、ところどころ空疎な社交辞令や気持ちの悪い媚びが目につくのと対照的)

片山由美子は、相変わらずのリゴリズム(とはいえ、それは技術論・方法論にほぼ限られていて、その意味で抑制的)だが、おおむね懐深く、若手の感想を受け止めていて、こちらも予想をやや裏切る。

ひとつ話題を拾うと、

(黒田杏子50句について)
野口 作品が交遊録になっているということですね。

黒田杏子は、追悼文・追悼句でさえベタな交友自慢(故人よりも「私」が前面に出てしまう筆致)になりがち。そうとう俗っぽい人(片山由美子流にいえば「人間が大好きな方」)なんだろうなと思っている。

『里』2017年1月で堀下翔「弔文」が、黒田杏子の追悼文・追悼句について「史実」の側面を重視、含みを持たせながらも肯定的に論じているのと、上掲・合評鼎談の当該部分と並べて読むと、興味深い。


2017/01/07

■某日日記 「手帳買う」は年末の季語でいいと思う、と年が明けてから言うのは間が抜けているけれど。

某日。俳人諸氏と新年会。

話の流れで今年は「黒10key」を前面に押し出しては? ということに。

そこで、『オルガン』の注目度が高いという話題でもちきりになって、『オルガン』の同人がいたので、手始めに、

「しゃらくさい同人誌だな」

と黒っぽく言い捨てると、くだんの同人氏から蹴りが飛んできました。『オルガン』は暴力的でもあるようです。ちょっと見直しました。


しかしながら、考えてみれば、ダメだと思うところにも触れるってことは、なにも「黒い」わけではなく、クリティーク(批評的)。

良いことだけ言って、あたりさわりなく、あとは腹に抱えたまま、あるいはウラでいろいろ言ってるほうが、よほど黒い。

これからも「キュートにクリティーク」をウリに、適当に楽しみます。

ただ、誠実にクリティークであるには気力が必要。俳句世間がめんどうなときは「事を荒立てずに愛想よく」をやっちゃう。そんなときは「休憩」と思うことにする。



某日。銀座・伊東屋で手帳を買う。初めてのタイプを、中身を見ながら決めた。

伊東屋は2015年のリニューアルで、ずいぶんと変わった。オシャレ化・高級化。意識高い系にアピールしそうな品揃え。文具のセレクトショップのようでもある。

やたら歩かせる導線は、「私を見て! すみからすみまで見て!」と言ってるようだ。

ゆったりとした通路は歩いていて気持ちがいいけれど、昔の伊東屋のように「なにかおもしろいものないかな?」と散歩したい感じはない。昔の伊東屋は、「ここに住みたい」と思うくらい、何があるのか楽しみな店だったが、今は、センスのいい人のセンスのいい客間にお邪魔する感じ。住みたいとは思わない。

でも、これからもときどきは出かけて、モノを買うと思う。



某日。週刊俳句の新年詠に投句。

私のメールアドレスは投句先のひとつではあるんだけれど、自分が投句するかどうか、できるかどうかは、年による。今年は、句ができなければ、それでしかたない、あきらめようと思っていたのですが、できたので、投句。



某日。初詣。少し足をのばして池上本門寺、九品仏浄真寺へ。

どちらも私は初めて。

嫁はんは池上の同級生の家にはよく行っていたが(同級生の部屋でスリー・ドッグ・ナイトのレコードを聞いた、って、そういう情報、要らない?)、本門寺には行ったことがなかったという。九品仏に関しては、そこに大きなお寺があるとも思わなかったようだ。

ふたりともに初めての本門寺と浄真寺。どちらも、とてもよかった。


2017/01/06

■鞄 西川火尖の一句

『里』2017年1月号より。

水涸るる鞄の中を混ぜてをり  西川火尖

探しものをするとき、よく鞄の中を混ぜる。けれども、この句を読むとき、目的を特定する必要はないのかもしれない。口の開いた鞄と腕の動き。入れるでも取り出すでもなく、混ぜる。

この行為は、渇水期となにかの因果があるわけでもない。けれども、この季語は、よく響く。よく鳴っている。

とくべつな彩で設えられているわけでもないのに、感興をもたらす句というものがあって、そこが俳句のコク深いところ、悪魔的なところなのだが、人には伝えにくい。


■街角の狼 金玉と山本勝之にまつわる私的リンク

小津夜景 薔薇色の金玉:フラワーズ・カンフー
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/12/blog-post_31.html

小津夜景 ロマンティックな手榴弾:週刊俳句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/blog-post_2396.html

〔拙記事〕俳句漫遊記94 山本勝之
http://tenki00.exblog.jp/4116418/

中嶋憲武 マイルスのリズム
http://hw02.blogspot.com/2008/11/blog-post_17.html

中嶋憲武 マスク鳥
http://hw02.blogspot.jp/2008/12/blog-post_08.html

Shayman 土壷よ:シェ~写真館
http://shayman.tamaliver.jp/e43072.html


今日は山本勝之の月命日。

2017/01/05

■広域すぎる

カーナビの地図は詳細~広域でスケールを変えられるが、ここまでの広域は要らない。


機械にも、ツッコミ待ちのボケをかましたいときがあるのだ。


2017/01/04

■馬を返す 『川柳カード』第13号の一句

『川柳カード』第13号(2016年11月25日)より。

馬を返す場所を探していて遅刻  樋口由紀子

広大な土地、悠久の時間が響くのは、「馬を返す」から中国の故事を連想するから(具体的な故事ではない=知らない。なんとなくありそうなモチーフ)。

一方、「遅刻」の理由は、卑近。「使える!」実例集からナンセンスで笑いを誘うものまでネタは豊富。そんななか、「すみません。馬を返す場所がなかなか見つからなくて」は言い訳としてかなり秀逸。笑える。

悠久広大と卑近のギャップの大きさがこの句の要諦。


2017/01/03

■正月二日の月と金星と冬三ツ星

友人宅へ。

街なかはほぼ通常営業に見え、正月の雰囲気はほとんどない。


YouTubeから再生機(ステレオ)に飛ばすBGM。飲食。黒豆(伝統おせち)+マスカルポーネチーズの絶妙コンビほか。

 元日も二日も暮れてしまひけり  子規

ベランダは寒い。月と金星の大接近を眺め、冬三ツ星を眺めて過ごす。


2017/01/02

■2016/2017:河童も年を越しただらうか

31日、尻子玉杯争奪句会に投句。年4回の中野での句会とは別に、正月企画としてウェブ上で開催。

ところで、尻子玉って、餅のイメージですね。

尻子餅。

角餅に親しんだ人にはぴんと来ないかもしれませんが、丸餅育ちだと、そのイメージ。

遠野の土産物屋。いやげもの(©みうらじゅん)のたぐい?

31日。

ピーちゃん(猫)が痛そうな声を出して、びっこを引いているので、獣医さんへ。外に出たとき足の裏を切ったらしい。処置。大晦日もあけてくれている獣医さんに感謝。

年越し蕎麦は、鴨つけ汁蕎麦。

夜のテレビには紅白歌合戦がついていて、嫁はんは例年のごとく、観る気満々でスタート、数十分経つとソファーでスヤスヤ。繃帯巻いたピーちゃんも傍らでスヤスヤ。私は、椎名林檎の素晴らしいステージを観て、満足満腹。あとは自室でTBSラジオなど。


年越しの枕頭は地獄のミサワ『カッコカワイイ宣言』全5巻。

YouTubeのアニメで観ていたが、コミック版を読むと、さらにめちゃくちゃで、いいかげんで、ひどくて(すべて褒め言葉)、素晴らしい。


1日、晴れ。

軽く自転車に乗る。人は少ない。

元日や晴れてすずめのものがたり  嵐雪

夕刻、嫁はんの実家へ年始挨拶。遠来の親戚家族と飲食歓談。


2017/01/01

■1月1日更新

週刊俳句・第506号は1月1日更新。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/01/506201711.html

当番に復帰した生駒大祐の「後記」に、1月1日が日曜日だった直近は2012年との指摘。その号へのリンクもあって眺めると、ちょっとした感慨。


第506号の目次トップは、

【新春対談】小津夜景✕飯島章友
〈身体vs文体〉のバックドロップ 格闘技と短詩型文学
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/01/vs.html

〈小津夜景『フラワーズ・カンフー』刊行記念〉的に企画。対談(BBS上)が始まってみると、思った以上にディープかつヘヴィー。お二人とも勘どころがわかる人なので、まとめはラクでした(流れもお二人に任せた)。


私は次の2本を寄稿。

■京都の案件 『鷹』2017年1月号の小川軽舟「顔」12句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/01/2017112.html

ふだんなら自分のブログに載せているかんじの記事。なんとなくお正月っぽいかな、と思い、週刊俳句・1月1日号に。

『鷹』の表紙は相変わらず趣味がよく愛らしい。絵は谷山彩子。いいですね、この人(works)。

■食べることの健やかさ 大木あまり『遊星』の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/01/blog-post_57.html