2016/02/29

■飛び出せくにたち・句会 in 川越、無事終了





■閏日にて菅井きんの歌

霊長類ヒト科菅井きん目ふはふはと雲のかたちを眺むる日々 10key


みなさん、閏日の月曜日ですね。




2016/02/26

再掲〔2月のくにたち句会 in 川越〕

というわけで、初めて国立を離れます。

2016年2月28日(日)14:00
本川越駅(西武新宿線) 1階改札口あたり 集合

散歩ののち…

句会 15:00~18:00
場所 http://www.kimura-ya.net/rental-space/info.html


参加される方は、tenki.saibara@gmail.com までどうぞ。




■そんなわけない出目金

『川柳木馬』第147号(2016年1月)より。

秀才の飼う出目金は喋ります  西川富恵

そんなわけないやろ! という句。

ボケれば句になる、というわけではなくて、可笑しみがどこから来るのか、そのへんは微妙かつ謎。

この号のこの作者には、他にこんな句も。

三人目の陽炎笛を吹きながら  同

萬金丹おまえいつからそこにいる  同

萬金丹は伊勢のみやげ

海深くニーチェの馬は泳ぐかな  同

ニーチェと馬のエピソードを深海に持ってくると、哀しみが増す。

この句の筆致・口吻には、川柳よりむしろ俳句を感じます。「かな」効果というだけかもしれませんが。




2016/02/24

2016/02/23

■性別の話

汗まみれ、ではなく、蟻まみれ、なんです。

小池正博句集『転校生は蟻まみれ』(2016年3月/編集工房ノア)。

で、その書名になった句。

都合よく転校生は蟻まみれ  小池正博

この転校生の性別の話なのですが、私は、何も深く考えず、男の子を想像しました。

ところが、榊陽子さん(川柳作家)の記事は、女の子設定。

http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-131.html

これ、単純に、びっくりした、というか、いや、「男の子に決まっている」と言いたいわけではなくて、読む人によって、違うんだなあ、と。

他の句をどう読んでいるか、つまり、上掲記事に「小池さんの句にときどき現れる少女がいる」とあるように、作家を全体で捉えるか、そうじゃないかの違いという可能性を残しつつも、これは、読者側の脈絡が大きいのではないかということも思います。つまり、「転校生」とだけ聞いて、思い浮かべる像がどんなものか、ということ。それは経験、記憶に大きく左右されるものでもあるでしょう。



試しに嫁はんに、この句を読んでもらいました。

まず、黙読したとたんに、大笑い。

次に口に出して再読。「あれまみれ、ありまむれ。あれ? 言いにくいね」

って、ぜんぜん言いにくくない。あ・り・ま・み・れ。それはいいのです。問題はそこではなくて、「男の子、女の子、どっちだと思った?」と聞いてみると、「男の子だね」との答え。


この句の「転校生」を男女どちらだと思うかは、読者の性別とは関係なようです(3例だけで恐縮な結論ですが)。









2016/02/21

■突然ですが、笠置シヅ子祭り、です














笠置シヅ子には、時空を超えて、ブランアン・セッツァー・オーケストラと共演してほしい。というか、私のアタマの中ではすでに共演済みなのであった。




■本質について 『鏡』第19号の一句

『鏡』第19号(2016年2月1日)より。

羊羹を切ればたひらに栗現る  寺澤一雄


栗羊羹の本質。

ただし、練り込んであって栗のかたちが残っていないものもあります(≫栗屋西垣)。




2016/02/19

■チャーリーさん現る

クルマを掃除したら、後部座席のポケットから、『チャーリーさん』と附録の「収録諸氏顔写真寄せ集め」(仮)が出てきた。

なぜにこんなところから? と、それはさておき、うれしい。

本体残部わずか。附録はひょっとしたらこれが手元に残る最後かも(ファイルもどこかに紛れて行方不明)。


2016/02/15

■あくなき菅井きんの歌

保険とか昼ごはんとか気懸かりはあれどもけふは菅井きんの日 10key


2016/02/14

〔2月のくにたち句会 in川越〕

というわけで、初めて国立を離れます。

2016年2月28日(日)14:00
本川越駅(西武新宿線) 1階改札口あたり 集合

散歩ののち…

句会 15:00~18:00
場所 http://www.kimura-ya.net/rental-space/info.html


参加される方は、tenki.saibara@gmail.com までどうぞ。



2016/02/13

■「なんとかライン」とか言う前に

誰かの俳句はこんな感じ、と、まあまあカジュアルに口にするわけですが、いつも思うですよ。その人の句をどのくらい読んで言ってるのだろう? って。

数句や数十句読めば、作風はわかる、という人もいらっしゃるでしょうが、私は、呑み込みが悪いのでしょう、わからない。少なくとも、断じることはできない。

これは半分皮肉と受け取っていただいてかまわないのですが、もし仮に、自分の作風を「こんな感じ」「これこれこういうライン」と言われたとしたら、さぞかしたくさんの句を読んでいただいているのだろう、ありがたいと思うでしょう。一方で、どこでどれだけの句を読んでいただいているのかな? と訝るかもしれません。

俳句世間におけるレッテル貼りの多くについて、いつも、「句集の1冊や数冊はお読みになったうえでおっしゃっているのですよね? それは」と、心のなかで聞き返しているのですよ。



2016/02/12

■坂道



湯島あたり。

梅を見に行きましょうかね。



2016/02/11

【句集をつくる】第9回 リサイクル

句集をつくるとき、ボツにする句の基準として、「出来が悪い」のほか、「カブる」もある。ネタのかぶり、趣向のカブり…等々。前の『けむり』でも、それはあった。

A
雲が雲にどんとぶつかる薄暑かな ボツ
雲が雲を離るるちから冬立つ日 入集

B
化粧して冷やし中華のやうな顔 ボツ
化粧せりつぶさに障子貼るごとく 入集

C
けしの花おちて畳のまつたひら ボツ
秋燈のひたひた満ちてゐる畳 入集


Aはどちらも入れてよかったかも。季節で並べると位置が離れてしまうけれど。

Bのボツ句は「あめふらし 失恋生活の四季」(2011年2月8日)の一句。

Cのボツ句は原型(もう忘れた)からいろいろ変えてみて定まらない句(捨てろよ)。

こうしたボツ句を脈絡(連作)をつくってこんどの句集に入れる(貧乏性)ことも検討。Bは、恋か何かの脈絡に、Aは、フツーに夏の連作に、Cは「けし」と「畳」でなんとか格好をつける。

結局捨てることになってもかまわない。句集づくりはレクリエーションなので、あれこれ考える時間を楽しむます。


■なんとかライン・回顧

ここ重要。


2016/02/10

■猫を俳句に詠まない理由

まったく詠まないというわけではないけれど、猫の句はほとんどない。

理由は、いまさら言うこともないほど単純で、私が猫で俳句を作ると吾子(あこ)俳句になってしまうから

飼猫を我が子と思っているわけではないけれど、やはりね。

他人様が吾子俳句・孫俳句を詠むのをダメと言っているわけではなくて。


写真を撮るのもブログに載せるのも親バカですよね。
俳句にしなけりゃいいってもんじゃない。

2016/02/09

■薄氷のしくみ

一点を突けば一枚うすごおり  花谷清

さわったり動かしてみたりすることはだいじだと思うですよ。見たり聞いたり読んだりしてわかっている(つもり)ばかりではつまらない。


掲句は『藍』2016年2月号より。

2016/02/08

◆歌仙「廚」 満尾!

雉一羽とどく師走の廚かな   夜景
  メルクマールは冬の三ツ星  天気
目的地周辺ですと声がして  れいこ
  うがひぐすりに奇書の香りが  景
虚空への供物のごとく望の月  気
  囮となつて並木にならぶ   れ
第三の男ガウンを脱ぎ出して  景
  逢瀬に胸のゴング高鳴る  気
踝が触れあふときの風のいろ  れ
  鳥居にペンキ塗り立ての札  景
朽だら野を目隠し鬼がふらふらと  気
  ぜんまい切れて笑ふ唐傘  れ
モナリザを置きしばかりに夏の月  景
  金魚屋の言ふ黄金比率  気
斑猫の三頭飛んで三方に  れ
  ままよ磁針が三途の川を  景
九杯目からは手酌の花の宴  気
  囀るやうな久保田の財布  れ
ぜんぶある耕耘機から入れ歯まで  気
  夜の硝子で模型を組んで  景
しやうもない話してゆく郵便夫  れ
  鍵穴越しのアタカマ砂漠  気
ウクレレを小脇に忍び逢ふことも  景
  いやんなつちやふ小皺も好きで  れ
雪よりも白き錠剤徹夜明け  気
  カプセルに乗る猿の団体  景
秀吉を真似る部下ゐて梅雨の入り  れ
  名前彫れます金の延べ板  気
怪盗も見惚れるほどの月であろ  景
  こんなとこまで鰯を追つて  れ
野博打の茶碗に虫の声しきり  気
  相槌をうつ僕の伯父さん  景
少年と中年バスに乗り遅れ  れ
  時間どほりに潮の満ち引き  気
あかときの租界は花の盛りなる  景
  バンドネオンにとまる春蝉  れ


起首:2015年12月29日 満尾:2016年2月8日



BGMは歌仙と無関係です。あくまでBGM。どんどん変えていきます。


【以下、2015年12月29日の記事】

とつぜんですが、歌仙を始めようと思い立ち、小津夜景さんから発句をいただきました。

雉一羽とどく師走の廚かな

捌かせていただきます。脇を付けます。

雉一羽とどく師走の廚かな   夜景
 メルクマールは冬の三ツ星  天気

いきなりカタカナです。


コメント欄に付句を書き込んでいただき、やりとりもコメント欄。付句が決まったら、この記事に反映していくというスタイルで。

とりあえず三吟で行こうと思います。のんびりと。

では、第三。なかはられいこさんにお願いします。

■音楽特集的な菅井きんの歌

叫んでも叫んでも淋しさは増す空と同じにオーティス・レディング 10key

その午後を行軍将棋して過ごすBGMはポール・モーリア

LPをいづれかあがた森魚から一枚選ぶとすれば二枚目

「デヴィッド・ボウイをそんなにみんな聞いてゐたのか」問題のこしボウイは逝けり


みなさん、月曜日は菅井きんの歌ですよ。



2016/02/07

■しつけ糸と蟹の穴

『週刊俳句』第459号に、2本の一句レビューを書きました。

イメージのスピード感 
豊里友行『地球の音符』の一句 ≫読む


連載 八田木枯の一句
春眠のなかぬけてゆくしつけ糸 ≫読む


対照的な2句。似たところがないといっていいくらい、かんじの違う2句。そのどちらも面白いから、俳句は面白い。


なお、豊里友行さんは同じ時期、写真集『オキナワンブルー: 抗う海と集魂の唄』を刊行。こちらも併せて購入したところ、ぐっとくる写真が多い。

2016/02/06

【句集をつくる】第8回 タイトルの話

シリーズ【句集をつくる】のタグはこちら

話は戻りまして予算。目安としてチャーハン2000杯だと、思い浮かべる単価が人によって幅がありすぎるので、言い方を替えます。

「練乳の味わい白くま」3500~4000

ということで。



さて、今回はタイトルの話です。

句集の書名で圧倒的に多いのは(ほとんどそうなんじゃないかと思うくらい多い)、ご存じのとおり、ある一句の中から語を拾うパターン。

これは、やりません。

主な理由は、書名になった句が目立ってしまうから。

その句を目立たせたいから、このパターンになるのでしょうが、それは避けたい。発表する句を差別したくないという、どうも奇妙な心性があるらしいのです、私には。

一句だけに良い思いをさせない。ぜんぶの句に良い思いをするチャンスを与えたい。

ヘンかもしれないけれど、そうなのだからしかたがありません。

『けむり』もそうであって、あのときは、書名を決めてから、「煙」「けむり」の入った句を構成から除外していきました。今回は、それをしなくてもいいように、確実に使っていない語を探すと思います。だから、すこし長くなるかもしれない。


でね、長いといえば、ものすごく長いタイトルもおもしろい。販売とか流通とかをいっさい考えなければ(実際、自費出版の句集にセールスもクソもない)、100字に及ぶ書名でもいいわけでしょう? 表紙・カバーは、タイトルだけでいっぱいです。となると、装幀者の腕の見せどころです。


この本はそうとう長い。72字。






避けるノリというのは、とうぜんあります。

かっこいいタイトル、美しい書名は、やりません。

句集が自分に酔っている(作者が、じゃなく、本が)みたいになるのは、ちょっとね。「どうよ、私ってこんなに美しい句集なのよ」「かっこいいだろう?」と、本がのけぞっているようなのは、趣味じゃないし、ガラでもない。

なんだかとぼけてて、愛嬌をだいじにしてて、でもちょっと凝ってはいるんですよ、といった書名がよろしいです。



というわけで、実際のタイトルを、おいおい考えるのでしょうが、かたちになるタイミングはまったくわかりません。句集をまとめている最中かもしれないし、最後の最後かもしれない。

どんな書名になるのか、自分でも楽しみ、というのがいいですね。


2016/02/05

■毛布のこと

雨後の木の滴りやまぬ毛布かな  髙柳克弘


毛布の中から何を見ている体(てい)は、なぜだか、「かつて」感、過去の「とある日」感が強い。理由はわからない。めずらしくもないが、いつもではない、ずっとではない、頻繁ではない、そうした日常と非日常のあわいのような出来事に思え、それが過去のある一点に気持ちを向かわせるのかもしれません。

そういえば、こんな句もあります。

毛布からのぞくと雨の日曜日  加藤かな文


ただ、考えてみれば、多くの俳句は、この「とある日」感をまといつつ、日常と非日常のあいだに存するとも言えそうです。


掲句は『鷹』2016年2月号より。


■モーリス・ホワイト逝去

2016年2月3日逝去。享年74。


Earth, Wind & Fire でいちばん好きな That's the Way of the World を。

2016/02/04

■「俳壇」とか、なんとかラインとか

週俳掲載のこの記事。

《福田若之:俳壇と「悪魔界のうわさ」、加えて「石田郷子ライン」という語について》
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/01/blog-post_31.html

消えかけていた火元に油を注ぐのが得意な福田若之氏。そのうえで自分流のアプローチで鎮火してみせる。私が福田氏を「マンチポンプ」と呼ぶ所以なわけですが、「俳壇」(大笑い)〔*1〕の政治といわゆる「石田郷子ライン」を結びつけるのが適当かどうかは、よくわかりませんので、ふたつの話題をひとつずつ。

と、その前に、「石田郷子ライン」については、蓜島啓介「二つの極のあいだで」(『鷹』2016年2月号)が石田郷子句集『草の王』と藺草慶子句集『櫻翳』を取り上げ、このラインを疑問視。機会のある方はご一読を。

さて。

1 俳壇について。

俳壇に政治は不可欠。政治にはいい意味も悪い意味もありません。だいたいにして政治がなければ、俳壇は生まれようがないし、維持されようがない。この手の社会集団が自然界の化学反応によって生まれるなんて思っている人はまさかいませんよね。

つまり俳壇=政治について、何かを語ってもあまり意味がない。藤田湘子が「俳壇は政治だ」と言うのは、ごく当たり前のことで、どこにも間違いはない。一方、竹岡一郎さんが「承服できません」と抗うのは、「俳句」が政治ではあってはならないという意味でしょう。これはそのとおりです。
(…)俳壇というものが俳句に干渉することを承服しない(…)福田若之・前掲記事
そうゆうことです。

俳句と俳壇はまったくの別物なのですが、俳句=俳壇と見る向きもないではない。同一視したい人たちがいるようです。「俳壇活動やってる暇があるんだったら、一句でも多く読んだり作ったりしたら?」というのは大きなお世話で、なおかつ、俳壇維持に注力してくれる人たちの労力は、俳句世間全般にとって、そして俳句にとっても、必要なのです。そうじゃなければ、いわば無政府状態の中で俳句を楽しむしかなくなる。俳句愛好にとって「俳壇」は必要です。

さて、そこで。「壇」という以上、そこにはヒエラルキーに類する秩序があることは無視できない。福田氏が言うように「統治」が実現されることとはまた別のこととして、それが「噂」が醸成する秩序かどうかも別として、「壇」には「高さ」がある。「高さ」にいい意味も悪い意味もありません。

(これをいちいち断らないといけないのは、つまり、なにか言うとかならず、良し悪しでしか考えられない人が多いようなので。たいていのことは、良いことも悪いことも起こします。要素と善悪は別のフェーズなのです)

ある種の人々が「俳壇の一員」になることを喜ぶのは、集団の成員となる安心感・充足感とともに、この「高さ」にまつわる感情もあるのでしょう。ただ、そんなことになんの関心もない人もいます。俳句には関心はあるが、俳壇には関心がないという人たち。

ただし、彼らは、俳壇的・サロン的言説について無知ではない。見聞きもしている。そのうえで関心がない。みずからをそこには近づけない。

(彼らの一人に私を加えていただいて結構です。そうじゃないだろうと否定していただいても結構。そうした他者による認定に、彼らは無関心なのです)

(と考えると、他人から何者と認められ、他人を何者かとして認める、そうした「認定」の作業の積み上げ・集積が「俳壇」かもしれません)

結論的には、俳句と俳壇は別だよ、俳壇を重視する人たちはいるけど、興味がないなら放っておけばいいんじゃないの、という、当たり前のことを繰り返して終わることになりますな。


2 いわゆる「石田郷子ライン」について。

ざっくりと、穏健にエコロジカル、書法における節度(抑制的)、共感的、意味了解性が高いetcを、このラインの特徴と捉えています。例えば藤幹子さんはツイッターで「ロハス的」と指摘(たしかそう。出典明示できずゴメン)。これにも納得。

かんじんな点は、上記に挙げたような要素が女性の俳人の作風に、とても多いという点。管見の範囲。数年、数十年のトレンドなのかどうか知りませんが、たしかに多い〔*2〕

破綻は少なく、感じのいい俳句なので、好感される。俳句業界的にはそれでいいんでしょうけれど、私の読書欲を満たしてくれるかというと、どうもそうじゃない。個人的にはそういう事情。

一方、俳句業界全体で考えたとき、作風の幅の狭さがある。いろいろな俳句があっていいし、実際にあるのだと思うが、女性の俳句におけるこのラインの数的な分厚さ! それにあって、「いいんじゃないでしょうか。でも、いっぱいありますよね、いま、こういうの」といった感想しかもち得ないのです。いっぱいあるから悪いというのではありませんよ〔*3〕。為念。



なお、福田氏の記事には『週刊俳句』のことも少し出てくる。『週刊俳句』は俳壇的ではないけれど、サロン的な部分はあるのかもです。

ただ、それは、個人的な問題に引き寄せたい。繰り返しになりますが、サロン的な雰囲気にどっぷり浸かりたいなら、そうしたらいいし、サロン的な場、サロン的な言説は、どうもちょっと、というなら、距離を置けばいい。あっしは後者。




で、結論としては、俳壇とか、なんとかラインとか、そんなもん、どうでもいいから、ブルースで行こうぜ。って、わけのわからないシメ。





〔*1〕かつて私が書くものにおいては「俳壇」という語のすべてに(大笑い)を付していましたが、めんどうなので近年は省略しています。

〔*2〕その一方で女性俳人に分厚いのは「ポエティック」でしょうか。

〔*3〕ユニークさという要素は、あまり評価されないようです。句会レベルならわかりますが、ナントカ賞レベルでもそうだから、ちょっと萎えます。

2016/02/03

■夏と比べると頻度と距離は落ちましたが、続いています、川ラヴァー・橋ラヴァー暮らし







イージーライダーを気取っているわけでありません。為念。

2016/02/02

■#‎私を構成する4軒

流行っているようなので、やってみました。

‪#‎私を構成する4軒‬


外食はきほん好きではありません。ひとりでもそうじゃなくても、家で食べるのが好きです。落ち着きます。

でも、ときどきはお店に入ります。とくにひとりの昼とか。幸い近くにステキな飲食店があるので重宝しています。

日高屋 チャーハンしか食べません。
サイゼリア トマト系のスパゲティを単品で。
以上カジュアル

餃子の王将 餃子定食or天津飯・塩味のどちらか。黒い餡じゃない天津飯があるのはありがたい。
以上ちょっとカジュアル

大戸屋 もっぱら焼き魚の定食。
以上高級

補足でおわかりのように、食べるものが決まっているほうがいい、店に入ってから何にするか迷うのはイヤ、というのが私のスタイルです。


2016/02/01

■ああそしてまた菅井きんの歌

弾きながら歌へば寄せて引いて寄すレイ・チャールズは海のやうだね 10key

小一時間過ごせて中田カウス・ボタンの漫才もあるホームセンター

人体の随所随所にひこばゆるそんな季節のケーシー高峰



月曜日は菅井きんの歌ですよ。




■合評喧騒・飲食盛大

一月のくにたち句会、ロージナ茶房(プリンが絶品)にて無事終了。席題10題。2時間弱。

場所を移し誕生日プレゼント贈呈式。合評喧騒・飲み食い盛大。シメはちらし寿司とお味噌汁。

お疲れさまでござんした。




席題:もし、柱、みごと、逃、注文、携帯、弟、割れ目、原、子供

毛皮着て「もし」を強調する男
もし祖母がペンギンだつたなら泣ける
もしきみが熊でもそこは譲れない
もし明日が二月だつたとしても寝る
全員がもし海鼠ならややこしい
電柱のやうな女でピラカンサ
家ぢゆうの柱で支ふ寒気団
柱より柱へ走る春障子
啓蟄といふもの家の柱にも
草を馬ひと食みごとに春近し
悪だくみごとに冬芽のふつくらと
みごとなる反り身ぞ嚔するたびに
綿虫はいつでも逃げてゐるやうな
終電を逃して鯛焼は冷えて
鍋煮ゆるを逃亡兵の顔で待つ
冬ぬくし窓に注文どおり海
御注文をくりかへします冬の暮
手袋を照らし携帯電話の灯
なになくに携帯するはおでんの具
まだ吹雪のなかにゐるのか弟よ
とりあへず二月は近江兄弟社
梅ひとつひらく茹で卵に割れ目
今生に割れ目のあまた冬芽吹く
原子番号一〇〇番以降ひこばゆる
草原をやはらかく踏み寒鴉
原作はくぢら三頭母ふたり
兵隊さん目病み子どもに寒波くる