2016/09/07

■残骸

社会が壊れかけているので(なんでも社会のせいにするなよ!)、日本語が通じても通じなくても、結果はそんなに変わらない、むしろ通じないほうが好都合だったりする(ホントかよ)。

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐〔*1〕

うしろあびひうらにおいてくる瓢  田島健一〔*2〕


どちらの句も、意味了解性が薄れる/失われる一方で、口調・口吻として雄弁・多弁の勢いを得る。不思議なことではありますわな。

「岳」「壁」「瓢」といった漢字は非・意味へと辿りつけずに(表意文字だから当然)、そこだけブツとして屹立するかのようです。液状化した平仮名の連なりの中に残された建造物の残骸のごとく。


〔*1〕川合大祐句集『スロー・リバー』(2016年8月/あざみエージェント)

〔*2〕田島健一「あるいはねびめく」 週刊俳句・第487号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/blog-post_91.html


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