2016/05/11

■あやまちは忘れちゃえ、忘れても忘れなくてもくりかえすかもしれないしくりかえさないかもしれない秋の暮

福田若之 〔ためしがき〕「忘れちゃえ」の句についてのメモ

ソフィスティケーションの一方、やや生硬に倫理的な色合いの濃い方向へ。

いわば「人文科学系・進歩的左翼」(この語は末尾にあえて(笑)を付して)、それは私の先入見かも知れないにしても、どうも、この2句を倫理的な正しさで〔弁護〕するような印象をもってしまう。それは、弁護自体は悪いことじゃないけど。


忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 池田澄子》も《あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄》も、ある種の破壊力、やわらかな破壊力が眼目と思っています。で、破壊の対象は「倫理」も含まれる。

もちろん両句とも反語表現と解するのがふつうでしょう(参照≫かわうそ亭 池田澄子さんの俳句)。反語も読み取れずに「忘れちゃえ」とはなにごとだ?と憤る幼稚な読み(当時、実際にあったと聞く)は論外としても、反語や諷刺(皮肉)は、そうと言い切ってしまうと妙味が薄れる。わざわざ直截を避けた甲斐がなくなる。

反語・諷刺を含んだ口吻は、これらの句において、それほどシリアスに、シロクロをつける方向には向いていない。

つまり、どっちだっていいのですよ。あやまちも忘却も。

句を作った人はどっちか心を決めているかもしれないが、テクストは、シロでもクロでもない、いわば超然とした、あるいはイイカゲンな立場に身を置く。

俳句は「意見」を言い合うものではないでしょう。俳句が「短くまとめた意見」だとしたらしたら、こんなに退屈なもの、ありません。意見なら、季語なんて要らないしね。

シロとかクロとか意見とか倫理とか、そういうものをやわらかく破壊していく俳句は、やはりおもしろいです。


(ただ、言っておかねばならないのは、この2句を併置したのは、初めてではないにしても、手柄。若之くん、グッジョブ!)


過去記事http://tenki00.exblog.jp/2072763/

4 件のコメント:

福田若之 さんのコメント...

天気さん

どうもこんにちは。若之です。
ご意見拝読しました。ありがとうございます。

>俳句は「意見」を言い合うものではないでしょう。俳句が「短くまとめた意見」だとしたらしたら、こんなに退屈なもの、ありません。意見なら、季語なんて要らないしね。

とか、おおむね同意します。

ですが、天気さんのおっしゃる「反語」というのが、ちょっとよく分からないので、質問したいなあと。あと、意見いただいたことで、自分の書いたものについて、すこし補足したいことも出てきました。それで、コメントしました。

>もちろん両句とも反語表現と解するのがふつうでしょう

というのですけど、この「反語」というのが、「忘れちゃえ(いや、当然忘れちゃ駄目)」という意味での「反語」なのだとしたら、むしろ、その読みのほうが、一つの倫理を前提としていませんか(それは別に悪いことじゃないですけど)。言いかえると、その「反語」を読む上で前提となっている「何があろうと忘れてはならない」という信条は、それはそれで、ひとつの倫理ではありませんか(天気さんは、注意深く、「そうと言い切ってしまうと妙味が薄れる」と書いていらっしゃるけれども)。

ごく単純に、僕にはこの句からそういう意図を汲み取ることはできませんでした。「忘れちゃえ(忘れちゃわないとやってらんないって感じるくらい辛いことなんだから、二度と起こって欲しくない)」というふうにしか読めなかったんです(天気さんがこれを「反語表現」と言っているのであれば、たしかに僕もこの句に「反語表現」を読み取っています。あと、この読みはこの読みで、たしかにある程度までは倫理的です。それも認めます)。

「週刊俳句」に掲載されているインタビュー(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/07/blog-post_6915.html)での、澄子さん自身の発言が、僕は、読み手として非常にしっくり来るんです――「書いた本人の私としては「忘れちゃえ」は自分に言ってるんだよね。いっつも忘れられずにいることを、もう、忘れちゃえって」。僕がこの発言を知ったのは句よりもずっと後でしたけど、それ以前から上述の通りに読んでいました。

もちろん、天気さんが書いている通り、作者がそう言っているからそう読まなければならないというわけではないのですが、この句については、この読みが、僕にとって、いちばん強く響く。だけど、そう読むことに対して倫理的に拒絶反応を起こす人は確かにいるでしょう。とすれば、僕は、その人たちに対しては、まず、この読みはあなたがたの倫理の表面(戦争の歴史を忘れてはいけない)とは相反するけれど、その根幹(戦争はいけない)を否定するものではないはずです、と言うしかありません。僕とその人たちがかろうじて分かりあえるとしたら、そこしかない。それを抜きにして、いきなり「いやいや、俳句なんだからさぁ」的な物言いをしてしまうのは、なんだか、分かる人だけ分かればいいという態度に思えて、それはそれでありなのでしょうけど、僕はそうではない仕方でこの句について語ってみたかったのです。

長文失礼しました。

10 key さんのコメント...

長文、歓迎。

忘れちゃえ(忘れちゃわないとやってらんない)も反語表現に含まれると思っています。
口語(人の口から出たセリフ)は、往々にして言ったとおりじゃなくなる(かわうそ亭さんはたしか「大キライ!」を例にあげていた)。この部分、「忘れたよ」でも同様。忘れてなんかないくせに、もう~、若ちゃんたら(水商売口調)。

シロクロどちらでもないところに読者を運ぶ、というのが、この記事の主眼ですかね。うまく書けていないけれど。

もうひとつ。「忘れちゃえ」と作者が自分に向けて言った、というのは、作句上の楽屋話かなあ。自分に言ったことも、おのずと他人に言ったことになってしまう。なぜなら、俳句は(文章は)、他人が読むものだから。

福田くんの記事に「倫理」を嗅ぎとったのは、ひょっとすると誤読かもしれませんね。「警鐘として読むこと」が締めなので、社会的事象(この件では戦争)への態度として、倫理的前提を見てしまったのですよ。

福田若之 さんのコメント...

お返事いただき、ありがとうございます。

反語については、分かりました。

ですが、

>「忘れちゃえ」と作者が自分に向けて言った、というのは、作句上の楽屋話かなあ。自分に言ったことも、おのずと他人に言ったことになってしまう。なぜなら、俳句は(文章は)、他人が読むものだから。

ここは、ちょっと微妙な気がします。たしかに、公表したものは他人の目にふれます。自分がそう言われたと思っちゃう人もいるのでしょう。だから、「おのずと他人に言ったことになってしまう」というのが、ある意味で正しいのは分かります。けれど、僕は、ほとんどの俳句について、その句が僕に話しかけているとは感じません。たとえば、《約束の寒の土筆を煮て下さい》(川端茅舎)を読んで、煮てあげようかどうしようか、とは思いませんよね。この句の頼みは読者に向いているわけではないと思います。それと同じで、「忘れちゃえ」が、僕に向かって忘れることを命じる言葉だとは思いません。単純に他人が読むものだから他人に言ったことになるというわけではない、何かややこしい問題がある気がします。

>「警鐘として読むこと」が締めなので

なるほど、確かにそうですね。それこそ、この一節は他人にこの読み方を命じる意図で書いたのではありませんでした。「ご飯の前に手を洗うこと」というときの「こと」ではなくて、コロンの前のところを「すなわち、どういうことを言っているのかっていうと、~を~として読むこと」と説明した感じです。ちょっと書き損じたかもしれません。

ひとまず、疑問は解決しました。
また、いろいろ考えてみます。

10 key さんのコメント...

>煮てあげようかどうしようか、とは思いませんよね。

思うよ。

人によって違うだろうけど、〈受け止める〉という意味で(思わない/無視する、も含め)、俳句や文は他人に触れる(目に触れるという意味だけでなく、接触する)。

まあ、これは詭弁ぽくもなるし、おっしゃるとおり微妙な問題。答えは、仮の答えでさえ出なくていいことですね。