2016/02/04

■「俳壇」とか、なんとかラインとか

週俳掲載のこの記事。

《福田若之:俳壇と「悪魔界のうわさ」、加えて「石田郷子ライン」という語について》
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/01/blog-post_31.html

消えかけていた火元に油を注ぐのが得意な福田若之氏。そのうえで自分流のアプローチで鎮火してみせる。私が福田氏を「マンチポンプ」と呼ぶ所以なわけですが、「俳壇」(大笑い)〔*1〕の政治といわゆる「石田郷子ライン」を結びつけるのが適当かどうかは、よくわかりませんので、ふたつの話題をひとつずつ。

と、その前に、「石田郷子ライン」については、蓜島啓介「二つの極のあいだで」(『鷹』2016年2月号)が石田郷子句集『草の王』と藺草慶子句集『櫻翳』を取り上げ、このラインを疑問視。機会のある方はご一読を。

さて。

1 俳壇について。

俳壇に政治は不可欠。政治にはいい意味も悪い意味もありません。だいたいにして政治がなければ、俳壇は生まれようがないし、維持されようがない。この手の社会集団が自然界の化学反応によって生まれるなんて思っている人はまさかいませんよね。

つまり俳壇=政治について、何かを語ってもあまり意味がない。藤田湘子が「俳壇は政治だ」と言うのは、ごく当たり前のことで、どこにも間違いはない。一方、竹岡一郎さんが「承服できません」と抗うのは、「俳句」が政治ではあってはならないという意味でしょう。これはそのとおりです。
(…)俳壇というものが俳句に干渉することを承服しない(…)福田若之・前掲記事
そうゆうことです。

俳句と俳壇はまったくの別物なのですが、俳句=俳壇と見る向きもないではない。同一視したい人たちがいるようです。「俳壇活動やってる暇があるんだったら、一句でも多く読んだり作ったりしたら?」というのは大きなお世話で、なおかつ、俳壇維持に注力してくれる人たちの労力は、俳句世間全般にとって、そして俳句にとっても、必要なのです。そうじゃなければ、いわば無政府状態の中で俳句を楽しむしかなくなる。俳句愛好にとって「俳壇」は必要です。

さて、そこで。「壇」という以上、そこにはヒエラルキーに類する秩序があることは無視できない。福田氏が言うように「統治」が実現されることとはまた別のこととして、それが「噂」が醸成する秩序かどうかも別として、「壇」には「高さ」がある。「高さ」にいい意味も悪い意味もありません。

(これをいちいち断らないといけないのは、つまり、なにか言うとかならず、良し悪しでしか考えられない人が多いようなので。たいていのことは、良いことも悪いことも起こします。要素と善悪は別のフェーズなのです)

ある種の人々が「俳壇の一員」になることを喜ぶのは、集団の成員となる安心感・充足感とともに、この「高さ」にまつわる感情もあるのでしょう。ただ、そんなことになんの関心もない人もいます。俳句には関心はあるが、俳壇には関心がないという人たち。

ただし、彼らは、俳壇的・サロン的言説について無知ではない。見聞きもしている。そのうえで関心がない。みずからをそこには近づけない。

(彼らの一人に私を加えていただいて結構です。そうじゃないだろうと否定していただいても結構。そうした他者による認定に、彼らは無関心なのです)

(と考えると、他人から何者と認められ、他人を何者かとして認める、そうした「認定」の作業の積み上げ・集積が「俳壇」かもしれません)

結論的には、俳句と俳壇は別だよ、俳壇を重視する人たちはいるけど、興味がないなら放っておけばいいんじゃないの、という、当たり前のことを繰り返して終わることになりますな。


2 いわゆる「石田郷子ライン」について。

ざっくりと、穏健にエコロジカル、書法における節度(抑制的)、共感的、意味了解性が高いetcを、このラインの特徴と捉えています。例えば藤幹子さんはツイッターで「ロハス的」と指摘(たしかそう。出典明示できずゴメン)。これにも納得。

かんじんな点は、上記に挙げたような要素が女性の俳人の作風に、とても多いという点。管見の範囲。数年、数十年のトレンドなのかどうか知りませんが、たしかに多い〔*2〕

破綻は少なく、感じのいい俳句なので、好感される。俳句業界的にはそれでいいんでしょうけれど、私の読書欲を満たしてくれるかというと、どうもそうじゃない。個人的にはそういう事情。

一方、俳句業界全体で考えたとき、作風の幅の狭さがある。いろいろな俳句があっていいし、実際にあるのだと思うが、女性の俳句におけるこのラインの数的な分厚さ! それにあって、「いいんじゃないでしょうか。でも、いっぱいありますよね、いま、こういうの」といった感想しかもち得ないのです。いっぱいあるから悪いというのではありませんよ〔*3〕。為念。



なお、福田氏の記事には『週刊俳句』のことも少し出てくる。『週刊俳句』は俳壇的ではないけれど、サロン的な部分はあるのかもです。

ただ、それは、個人的な問題に引き寄せたい。繰り返しになりますが、サロン的な雰囲気にどっぷり浸かりたいなら、そうしたらいいし、サロン的な場、サロン的な言説は、どうもちょっと、というなら、距離を置けばいい。あっしは後者。




で、結論としては、俳壇とか、なんとかラインとか、そんなもん、どうでもいいから、ブルースで行こうぜ。って、わけのわからないシメ。





〔*1〕かつて私が書くものにおいては「俳壇」という語のすべてに(大笑い)を付していましたが、めんどうなので近年は省略しています。

〔*2〕その一方で女性俳人に分厚いのは「ポエティック」でしょうか。

〔*3〕ユニークさという要素は、あまり評価されないようです。句会レベルならわかりますが、ナントカ賞レベルでもそうだから、ちょっと萎えます。

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