≫もう一度、「発句」と言いはじめるために
≫なぜ、もう一度、「発句」と言いはじめることを考えるのか
2行にまとめると、
句は、他の句とつながってるよ。
俳諧味しばり、じゃなくていい。
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異論はありません。というか、含蓄および刺激的。
●
2本目は「念の為に言っとくけど」といった位置付けと思しいが、心配に及ばない。現在の俳句世間においては、俳諧味は幅を利かせていないので。
ざっくりいえば、俳諧味と文学性が対照され、後者が優遇されている感が強い。
で、このふたつ、どちらも、アリでいい。「俳句」はなんでもアリ。「俳句」は寛容。
「俳句」という言い方には一つの価値判断がすでに織り込まれている。そう考えると、バルバロイになってしまうかもという懸念は当然あるけれど、あえて「発句」と言いはじめてみたいという気持ちが湧いてくる;そのほうが、なんだか自由になれる気がする。(福田若之)この部分は、俳諧味ばかりを重視する必要はない、という脈絡にありますが、逆に、俳諧味を(現在のように)軽視する必要もない。そのほうがさらに自由、と、私などは思うですよ。
ただ、「俳諧味」というもの、幅広く多義的。その難しさはありますけれど。
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