2015/11/20

■発句と俳諧味 福田若之宣言のこと

福田式発句論の記事2本(ウラハイ掲載)。

もう一度、「発句」と言いはじめるために

なぜ、もう一度、「発句」と言いはじめることを考えるのか

2行にまとめると、

句は、他の句とつながってるよ。

俳諧味しばり、じゃなくていい。



異論はありません。というか、含蓄および刺激的。



2本目は「念の為に言っとくけど」といった位置付けと思しいが、心配に及ばない。現在の俳句世間においては、俳諧味は幅を利かせていないので。

ざっくりいえば、俳諧味と文学性が対照され、後者が優遇されている感が強い。

で、このふたつ、どちらも、アリでいい。「俳句」はなんでもアリ。「俳句」は寛容。
「俳句」という言い方には一つの価値判断がすでに織り込まれている。そう考えると、バルバロイになってしまうかもという懸念は当然あるけれど、あえて「発句」と言いはじめてみたいという気持ちが湧いてくる;そのほうが、なんだか自由になれる気がする。福田若之
この部分は、俳諧味ばかりを重視する必要はない、という脈絡にありますが、逆に、俳諧味を(現在のように)軽視する必要もない。そのほうがさらに自由、と、私などは思うですよ。

ただ、「俳諧味」というもの、幅広く多義的。その難しさはありますけれど。

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