2014/11/12

■「超結社」の終焉

「超結社」という語に少なからぬ違和感をもっています。

「結社」を「超」えて、と言いながら、結社を前提とした発想という点では、「結社帰属」と同等かそれ以上に「結社志向」に思えるからです。

と、こういうと、理屈を弄しただけのようにも聞こえるので、具体的な話題へ。



「超結社」という語を強い印象をもって受け取ったのは、同人「豆の木」のサイトでした。今もトップページにはその3文字があります(≫http://homepage3.nifty.com/mamenoki-kukai/)。

「豆の木」が始まった1994年当時は、結社が今より強度をもっていたし〔*1〕、結社のしがらみ・束縛も強かったので〔*2〕、それなりに有効だった。結社に所属する当時の若手俳人が、〈結社とは違うところ〉から何かを始めようというモチベーション(結社的閉塞からの脱却)は想像できるし理解できる。貴重なものです。

ところが、時間が経つと、俳句世間全体がちょっと変わってきた。

A 結社出自ではなく、俳句を楽しみ、なおかつ読む価値のある(というか、おもしろい)俳句を作る人たちの出現(これは時代の変化だけではなく、広く眺めれば、そういう人たちがいたということかもしれません)。こうした人たちは、結社のしがらみ・束縛とはのっけから無縁です。

B 結社内部にいながら、結社依存というのではなく、読む価値のある(というか、おもしろい)俳句を作る人たちの出現。結社所属のしがらみ・束縛を超えて(あるいは、すり抜けて)、結社というインフラを(悪い意味ではなく)自分のためにうまく使える若手の人たちが生まれているように思います。

結果、〈「超結社」というこころざしや運動〉は、〈結社とクレバーにつきあう結社プロパーの洗練(B)〉と〈結社なんて知らねえよという非・結社出自の野蛮(A)〉のあいだで、(ある意味ひ弱に)取り残されていくことになりました。

言い換えれば、結社出自と非・結社出自が互いに反駁・対立することもなく、既存の俳句秩序をいくぶんか更新した現在の景色〔*3〕のなかで、「超結社」の看板はいつのまにか古ぼけてしまった感があります。



「豆の木」サイトのトップページには、「1950年以降生まれの俳句実作者の会」との文言があります(この入会条件はすでに撤廃されたとも聞きますが)。

「1950年以降生まれ」といえば、スタート当初は45歳以下。俳句世間では充分に若手ですし、その世代に「超結社」という機運が生まれたのはわかる気がします(当時まだ俳句を始めていなかった私にも)。

けれども、現在は、65歳以下。もう若手とは言えません。当時の気運が20歳ぶん年をとった。20年間、樽に漬けられたままのようなものです。

「超結社」で始まった「豆の木」は、生い立ちはそのままでいいので、現在から未来にかけては、別のキーワードが必要な気がします〔*4〕


なお、「豆の木」には、これまで80人近い人が参加。私も2006年から2010年まで所属しました。



さて、こんな記事を書いたのは、今年の「豆の木賞」が決まり(太田うさぎさん、おめでとうございます!)、その後、豆の木・掲示板(≫http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs) でメンバー間でちょっとした論議があるのを知ったから。

それについては、また別の記事で。



〔*1〕俳句でいっぱしの作者になる、本格的に俳句に関わっていくには、結社所属・結社活動がほぼ必須。また「俳壇」秩序は、結社が基盤。今でもそれは変わらないかもしれないが、俳句世間における結社の存在感は、今とだいぶ違う。

〔*2〕結社のメンバーに結社以外の句会への参加を禁じるところもあった。オープンな賞への応募も、主宰の選やアドバイスを経てからという結社も、今より多かったと思しい。

〔*3〕例えば『新撰21』以降の分てアンソロジーには、非・結社出自の有力な作家が数多く、結社プロパーと並んでも違和感がない。

〔*4〕「豆の木」のメンバーは流動的で、帰属意識も良い意味で薄い。現在のメンバーそれぞれに「豆の木」の捉え方は異なるでしょう。「超結社」をどのように近いするかもメンバーそれぞれ。しかしながら、人それぞれでは話にならないので、そこはそれ、です。

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