2013/07/05

■ジャンルの価値?

承前:(笑)という編集処理

編集処理としての(笑)の話をしましたが、これは、上田信治「時評というもの 筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって」(週刊俳句・第323号)の本線ではありません。この記事に書かれているのは…

1. 時評とは反応である。

2. 時評(評論全体?)の主体は、ジャンルの価値である。

3. 否定(選別)が批評の主流だった時代もあったが、筑紫磐井氏は「肯定」の手法を選んだ。

4. 筆者(上田信治さん)は、価値を代弁して書くことはできない。反応はするけど。

ざっと、こんなところです。


時評の主体、言い換えれば、時評の書き手が何を拠り所とするか。そこは微妙なのですが、突き詰めていけば、ジャンルの価値、俳句の価値としか言いようがないのかもしれません。美しい結論だし。

けれども、これ、使い方によっては、危ないところがあります。大正義になってしまう。

下世話な例示ですが、例えば、仮に、私が、無季・自由律撲滅運動の片棒を担ぐ人だとしたら、「なぜダメなの?」との問いには、「俳句というジャンルの価値を損ねるから」と答えておくでしょう。

時評を書くことは、さらに広く批評することは、俳句の価値を代弁することなのだ、という認識が、覚悟であり、自制に働くぶんにはもちろんいいのですが、思い込みや党派的言説の後ろ盾になってしまう危険性だってあるわけです。

しかるに……
はじめに、当欄について「「時評」を僭称」と書いたのは、自分にはジャンルの「価値」を代表して書くようなことはできない、と思ったからなのですが。

では、当欄は通りすがりの人間の代弁者として、それ、へんじゃないすか、とか、そういうことを主に言って、あれこれ「反応」していきたいと、考える次第です。
こうした上田信治さんのスタンスはきわめて健全な姿勢ではないかと思うのであります。


0 件のコメント: