2013/06/23

■おまいら、ちょっと、俳句つくりすぎ

…などとは言いにくい。感じが悪いし、そんなことは大きなお世話、それぞれつくりたいからつくっているのだから。

一方、「どんどん俳句をつくりましょう」。これは、感じが悪いなんてことは、ない。ただ、そんなこと言われなくても、どんどんつくるのが俳人/俳句愛好家の性(さが)であり、「つくるな」と言ってもつくるのが彼らです。

ところで、35年前。
いまの俳壇は、多くの凡庸なるものたちが、もっぱら数を頼んで、次々と俳句形式に恥辱を与えている時代である。しかも、いちだんと悪いことに、これほど俳句形式を汚辱にまみれさせながら、それについて何も気づいていないのであった。むしろ、それを時に気づかせるかもしれぬような批評の存在を、つとめて忌避してきたのである。
(『俳句研究』1978年2月号・編集後記)
『円錐』第57号(2013年4月31日)の「特集・高柳重信」にある横山康夫「批評の精神と表現の一回性」から、高柳重信の一文を、誠に恐縮ながら孫引きさせていただきました。

ここで「数に頼んで」いるのは、「俳壇」にある人たち、という色合いが濃く、ある種選ばれた「俳人」「作家」に向けられた感が強い。少なくとも、町の公民館で句会を楽しみ、新聞や雑誌への投稿をがんばっている俳句愛好者たちに向けられた感じはありません。

ところが、35年を経過して、(同じ『円錐』同号の「アンケート・この30年で変わったこと変わらなかったこと」、山田耕司の回答と照応させるなら、80年代のマス化の波をくぐり向けたそののちの現在)、俳壇は俳句世間へと融解し(俳句世間の「俳壇」化)、俳人も俳句愛好者も、作家もシロウトも、それは自称に過ぎないでしょうと、という状況。言い換えれば、「汚辱」は、選ばれた作家だけでなく、俳句に関わる人すべてに無縁ではない、ダイナミックな状況が、いま、というより、本来、当時も、いつの世も、それがあったと、いうことなのだと思いますが。

ただし、私自身は、俳句の「易きに流れる」部分は、否定しておらず、むしろ、そこを逆手にとって豊かにしていくしかないんじゃあないの、という思いもある。「凡庸」な人を排除すれば、「俳壇」は素晴らしいものになるかというと、それはブンガク的、ゲイジュツ的な理想主義でありすぎる感(凡庸な人が、凡庸じゃない句をつくってしまうかもしれないのが、俳句ですから)。

だから、俳句をつくりたい人、つくろうとする人には、「おきばりやす」と、関西風にイイカゲンなことを申し上げるのを常としています。

で、この午後、まさにこれから、私は、自分がお世話している句会に参加し、10や20の俳句はつくるつもりなのですよ。ここは(笑)で占めるべきところ。


ひとつ但し書き(というか言い訳)がいるのは、これまで「つくる」という語で言っているのは、発表、他人の目に触れさせることを含んでいる。発表の場が増えていること(インターネット普及、同人誌の大量発生等々)は、人がひとり俳句を(大量に)つくることとは、かなり事情が違い、いわば大量に供給されるこの状態が、まさに、ということ。

つまり、生産と供給は、違う。

言い換えれば、つくることと、それを読ませる(読んでもらう)ことは、違う。

それを含めての話。


ところで、上掲『円錐』の「特集・高柳重信」にはおもしろい記事が多く、例えば、山田耕司さんの
「婚活のようなポエムを繁殖させるために彼は叫んだわけではない」
なんて、タイトルだけでそそられるものがあるじゃないですか?

「ポエム」という語はいつからか罵倒語のポジションを獲得しているのですね。そのへんの事情にも、この記事は触れています(「歌う」という語の記事内での設定には、すこし抵抗がありましたけれども)。

ここで、「供給」という語の関連語として「繁殖」が加わったわけです。

「おまいら、ポエムを大量に繁殖させてんじゃねえよ」というわけで、これもまた感じの悪いセリフなので、気軽に言ってはなりません。

なら、どうするか?

とりあえず、ちょっと、落ち着きましょうか。

「物資がなくなるんじゃないか、いまのうちに俳句をつくっとかないと」 てな感じの、オイルショック後のトイレットペーパーか、俳句か、わからないような焦燥感(あるいはヤル気満々)は、ムダだし、不要ということで。

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