2013/01/18

句のなかの語だけ取り出してうんぬんしてもしかたなくて、やはり句で考えないと

カタカナ語やその略語(例:コンビニエンスストアとコンビニ)の俳句での使用について、少し前にツイッターで話題になっていた。

カタカナ語やその略語そのものだけを取り出して、うんぬんするのはあまり意味がなくて、せめてそれが用いられた句についての言及がないとね、という話なのですが、ちょっと別の角度から。

文語体

口語体

このうち文語体は、俳句では、古語という分野と密接に語られることが多い。例えば「なりにけり」があれば文語体俳句、「寒き」「寒し」もそう。「寒い」なら口語体、というようなざっくりな把握。でも、じつは…

文語体=書き言葉

口語体=話し言葉

…というのが基本なわけで、とすると、

コンビニエンスストア=文語体(の範囲にある)

コンビニ=口語体

ここで思い至るのは、関悦史さんの句集『六十億本の回転する曲がつた棒』には、カタカナ略語が少ないという件。

これは、この句集が「書き言葉」で出来ているからです。

徹頭徹尾と言っていいと思います。この句集(さらには関悦史さんの俳句)は「書かれた」句によって出来ている。モチーフによらず、そこが徹底されている。例えば、《蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ》。素材はカジュアルで「口語」的な世界に属する事柄も、「文語」的に設える。そこに、あの「異化」という作用が、きわめて俳句的に立ち上がる。それは句集冒頭の《女子五人根性焼きの手に氷菓》も同様。

《ケアマネージャーとの相談の横祖母脱水》 は、「ケアマネ」と略語を用いれば17音には近づきますが、それはしない。「くだけて口語的な部位を持つこと」への拒否=句が「書かれること」への強い意識/無意識が、作品群の感触の重要なところを決定づけている気がします。

 

一方、カタカナ語の話題の発端になった、神野紗希さんの《コンビニのおでんが好きで星きれい》は、「コンビニエンスストアのおでん」といった書き言葉を選ばない。カジュアルで「口語」的な世界とそのまま親和するという、これはこれで一種の覚悟です。

ところで、この句(きっと有名句、神野紗希さんの代表句のひとつ)について、個人的な感想、というか捉え方に、ちょっとした紆余曲折というか、ややこしいところがある。

この句、コンビニエンスストア協会(そんなものがあるのかどうか知らないが)のポスターのコピライト案として提示され、もしも私が検討会議の席にいたら、(他案との比較もあるが)そうとう強く「おお!」と思い、推すだろう。「イイネ!」であります。

ところが、これが俳句として提示されたら、「ああ、なるほど」という程度。良い・悪い、好き・嫌いでいえば、後者の感想を強く持つ。もともと「広告コピーのような句」にほとんど関心がないのです。

(個人的には、コンビニに足を運ぶことはほとんどないしね。私が暮らす世界にはコビニエンスストアもコンビニも存在しないも同然)

しかし、少しして、高山れおなさんの次の指摘(把握)を読んで、感想が変わった。
だが本当に重要なのは、この句が全体としてコンビニのCMみたような、類型的幸福像のトレースになっていることだろう。俳句の類型性とコマーシャリズムの類型性のハイブリッドとしての類型性を打ち出している(…)
「日めくり詩歌 八十八番」 
つまり、この句は、「商業」的な現代にありがちな「類型」を、あえてなぞり、いわば「出来合い」の広告文句を、そこにポンと置いたような句と解するべきなのだ。一種のレディメイド。

そう考えれば(すなわちメタな視点を導入すれば)、モーダルでスタイリッシュ(ここ少し笑いをとりに行ってます)、 俳句の可能性のひとつを実現した句ともいえます。

この句を「素」で読んで、良いとか悪いとか言ってもしかたがない、ということですね。

(一方、「素」で読んで良いなんていうのは、どうかと思う、という感想は残る)

 

俳句に、新語を、カタカナ語を使用することの是非について、なんて話題にはまったく興味がないのですが、そのことをきっかけに、ちょっと別のことを考えてましたですよ。






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