2012/08/25

自分濃度、ひゃっ、ひゃくぱーせんとー?

矢野風狂子さんが、私の記事「自由律俳句・断章」を受けて、「私が《自分からの自由》に利用するのは「写生」です。」とツイート。

へえ、自由律俳人も、そんなことを考えるんだー!と少々驚き、その後のツイートに注目。質問を入れて、考えを聞かせていただいた。それをまとめたのが、これ↓

@fu_kyo さんによる《自分からの自由》《写生》《定型・自由律》

http://togetter.com/li/361047

どうなるのかと経緯を追っていたら、どうも雲行きがあやしい。で…




えー! 思いっきり、「自分」に行っとるやんけ~!

と、まあ、びっくりするやら、力が抜けるやら、です。

つまり、「自分濃度100%」で行きたいけど、それじゃあまりに恥ずかしいし、読者にはつまらないだろうから、「自分濃度」を薄めるために《自分からの自由》をちょこっと混ぜますわ、ということですから、最初に抱いた私の関心は、いったいなんだったのでしょう?

風狂子さんは、《自分コンシャス》を全面的に受け入れていらっしゃるようです。それならそれで、そこを貫けばいいと思うのですが、「それだけだと、ほ ら、読者が…」というのは、合コンで、自分の話だけしてモテたいけど、それだと嫌われるみたいだから、違う話もするね、みたいな話でしょう。

それにですね、「ここが天気さんのいわれる「含羞」の部分(あくまで僕なりの「含羞」ですが)」って、ぜんぜん違いますからw 「自分濃度100%」って時点で、含羞ゼロですから。

風狂子さんは、マジメなのか、ふざけているのか、私がからかわれているだけのか。そこはもう、なにがなんだかわかりません。

私がだまされ、からかわれてるだけだとしても、だいじょうぶ、「私の青春を返して!」などとは言いません。



上記の「まとめ」のあと、「写生」や五七五についてもコメントややりとりががあるのですが、「え? 定型の人は削っていって五七五にするんじゃないの?」といった驚きを見せる風狂子さんがいて、こっちのほうがよっぽど吃驚しましたぜ、という感じです。

ひょっとして、削るのがもったいないと思った人が、長い系の自由律に行くんですか? 教えて、自由な人。

写生に関する部分も、なんだか、《世界》を描写するには、地球の表面積と同じ大きさのスクリーンがベスト、みたいで、それはそれで「シミュラークルとシミュレーション」ぽくて刺激的ですが、文芸でそれだと大変です。



まあ、そんなこんななわけですが、ひとつ、要点は、風狂子さんに限らず、《自分コンシャス》っぽい俳人さんは、「自分濃度」の濃淡は別にして、基本的には、読者が、作者に興味をもつ、と信じているフシがあるところです。

念の為に言っておくと、これ、有季定型も無縁じゃなく、日常のつぶやき+季語、人生訓+季語、私ってこんな人+季語、といった俳句は少なくないのです。「自分なりの表現」「自分なりの感性」といったワケのわからないことを言う人も、その部類です。

でもね、ふつう、読者は、俳句(ことば)に関心はあっても、それを書いた「どっかの人」になんて興味はありません。

「あんたの話はいいから。俳句がどうか、だから」。

それが読者の気持ちなんじゃないですか。

特定の俳人を好むというのは、その人名義の俳句が、読んでおもしろかったという積み重ねの信頼が基盤。その意味では、作者名は商標みたいなものです(これは週俳掲載の 俳句のなかの「私」 に書いた)。



どうも、これは、おもしろい自由律俳句に出会うのが、私にとって先決かもしれませんね。こんど自由律の話をするとしたら(しないかもしれない)、その話ですかね。

0 件のコメント: