2009/06/28

一介の掃除機

どんな掃除機なんだろう?

と思って、よく見ると「掃除婦」だった:
ジョン・ウルフは、出版してもこの小説は売れないだろうという考えを、一介の掃除婦の意見で翻意する。ブルボン小林『ぐっとくる題名』中公新書ラクレ・2006年)

2009/06/27

ジョージ・A・ロメロ監督「ランド・オブ・ザ・デッド」

(レンタルDVD)2005年作品。ロメロ、約20年振りのゾンビ映画。

世界がすでにゾンビだらけというところから映画がスタート。人間(生きている人間)は居留地に閉じこもり、そこでは富裕層(支配者)と貧困層(被支配者)に二極化。こうくると、この映画のプロットがかなり読める。悪いのは支配者だよね、きっと。

街の支配者(デニス・ホッパー)がえげつなく、雇われている荒くれ者(こちらが主人公)も、ゾンビの群れも、敵は、支配層。なんだかヘンテコな革命劇の様相。

知性を持たないはずのゾンビ(走らない、しゃべらない、考えないがゾンビの3原則とか)が、あるときからコミュニケーションや道具にめざめる(なんか、サルからヒトへのジャンプの瞬間を、ゾンビで見るよう妙に感動的)。

ゾンビに知性を芽生えさせるのは、ゾンビ映画としてどーなの?なんですが、最後に(予想どおり)荒くれ者とゾンビがほのかに心を通わせるのであれば、この設定は必要。

精神的に腐敗した支配者を悪に据えたので、肉体的に腐敗したゾンビは、怖くない(むしろゾンビを応援したくなる)。ちぎれる手足や首、はみだす内臓もいまひとつグロくない。その面でのゾンビ映画ファンには物足りないだろうなあと思う。

でも、その趣味のない私にさしたる不満はない(おおおっ!と叫ぶほど吃驚するシーンがないのは寂しいが)。

星、2つ半。

※なお、星2.5個は、普通に楽しめるという意味で、悪い点数ではありません。

ジョージ・ロメロ監督には、次回作として「蟹工船のゾンビ」を期待(日本人ゾンビのほうが怖そう)。あるいは、自動車会社のトップやウォール街を襲うという設定でリメイク版を。

ほら、道具を使う知恵がついちゃった。
腐敗した権力に立ち向かうレジスタンス、市民革命の様相。

2009/06/26

2009/06/25

イエスメン

東京のローカルTV局・東京MXテレビでこの春から週1回(日曜23時)やっている「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」。観なきゃと思いつつ忘れていたりだが、町山智弘が選ぶ米ドキュメンタリー映画は、「ひゃあ、テレビでこんなの観られるんですか!」のことが多く、かなり画期的。ローカル局ならでは。

『イエスメン』 http://www.youtube.com/watch?v=8T-FaGF7FQA
前編6回と後編6回を順番に観れば、1本完結。

痛快このうえなし。必見。

2009/06/24

本屋で尾崎翠特集を

買おうか、立ち読みですませるか、思案中。
手に取りたくなるカバーではあります。いわゆるジャケ買いを誘うような。

『尾崎翠 モダンガアルの偏愛』(河出書房新社)

モダンガアル…。これってどうなのか。というのはつまり、こういう把握ってのは。

くにたち句会6月

6月28日(日)14:00 JR国立駅南口集合

句会場:いつものキャットフィッシュ
席題10題程度。
悪魔のように句を捻り、悪魔のように飲み食いします(なつかしいフレーズ)。

初めての方も久々の方も御常連の方も、御一報いただければ幸いです。

2009/06/23

ニコラウス・ゲイハルター監督「いのちの食べかた」

(レンタルDVD)
2005年、オーストリア・ドイツ合作。日本では2007年11月から劇場公開。

原題は「Our Daily Bread」。野菜やら肉やら食糧のさまざま生産現場の光景が、ナレーションもテロップも台詞も音楽もなく、ただただつぎつぎと画面に流れる。説明はいっさいナシ。

やってくれるもんです。広大な畑やビニールハウスや食肉工場がただ映っていて、絵が動くだけなのに、およそ90分、目が離せない。

あまりに何の変哲もない労働者の昼ご飯シーンに笑ってしまったり、岩塩採掘坑に「おおっ」と声をあげたり、大農園を農機が行くシーンはSF異星モノのようだと思い、ラスト近くの屠殺シーンはさすがにきつかったりと、つぎつぎ現れるシーンに興奮。

シンメトリーの頻出するスタイリッシュな画面は、鼻にはつかず、むしろ知的で好ましい(ヨーロッパっぽいなあ)。

観る前は、邦題(いのちの食べかた)やちょっとした予備知識から、エコっぽい映画なのかな?と思っていたが、観てみると、メッセージは(あるのだろうが)明示的でない、というか、「何も言わない」に近い(このあたりもヨーロッパ的洗練)。

ちなみに、邦題の「いのち」は、ダメダメダサダサ。予見を与えるという意味でも、この邦題はいけません。「ふだん食べているものがどこから来ているのか」をきちんと描いた映画。だからこそ岩塩採掘も屠殺も、同じテンションで描かれる。「いのち」などという嘘っぽい観念性のないところが、この映画の良いところです。

星4つ。


余談。この映画がヨーロッパっぽく知的/暗示的でスタイリッシュであるのと対極にあるのが、マイケル・ムーア。それ、ドキュメンタリー映画じゃなくて「意見映画」でしょw、というくらいに明示的。どっちも面白いから、困ります。

オートバイ句

オートバイにまつわる俳句を募集とか。≫バイクで俳句グランプリ2009

オートバイといえば、

  秋風や蝿の如くにオートバイ 岸本尚毅

がすぐに思い浮かぶが、これは入選しそうにない。

2009/06/22

ジェームズ・マーシュ監督「マン・オン・ワイヤー」

1974年8月7日、フランスの若き大道芸人フィリップ・プティが、当時世界一高いビルであったニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワーに鋼鉄のワイヤー(綱)を渡して、 その上を綱渡りで歩いた。(公式ホームページより

例の9.11で倒壊したツインタワーが完成したのは1973年(4月4日に落成式典)。完成してまもなくの高層ビルで企てられた綱渡り(もちろん無許可)。これがフィクションなら、どうということもない凡作を予想しただろうが、実際の話なのだ。あるいは実話に基づいた虚構という手もあるのだろうが、この映画はドキュメンタリーなのだ。

これは観るしかない。と、公開前から決めていた。きっと変人の物語と踏んだからだ。変人をフィクションでなくノンフィクションで観られる機会を逃す手はない。心のどこかで『ゆきゆきて、神軍』(1987年・原一男監督)の存在があったのかもしれない(ぜんぜん違う映画だったけど)。

さて、「マン・オン・ワイヤー」は、当時の映像(動画と写真)、現在のインタビュー(プティ氏ほか関係者)、再現フィルムの3要素から成る。3つの分量バランスも処理も良い。

こういう映画の場合、再現フィルム部分でシラけてしまうケースも多そうだが、「ウィークエンダー」(古い!)みたいな再現じゃなくて、スタイリッシュなモノクロ画面。顔とかがよく見えないアングルや処理も、どうってことないとはいえ、きちんと巧み。

ハイライトは言うまでもなく8月7日当日の綱渡りシーン。これはもう、充分に神々しく、美しく、胸がつまります。でも、なぜ、心が揺さぶられるのか、その理由はよくわかりません。命綱があったら、ちょっと違う反応だったはず。でも、命綱はない。高さ411メートル。

 すごっ!

1974年8月7日の、この絵は、すごっ、のひとことです。

綱渡りされても何の役にも立たないけれど、でも、すごいわけです(ワールド・トレード・センターの宣伝にはなったようだ。プティ氏、事後的に報酬は受け取ったのだろうか。そのあたり不明)。

もうひとつ、この映画の大きな魅力は、フランスの片田舎で進められる準備(実際の映像、よく残していましたねえ。グッジョブ)。アパートの一室みたいなところに幼なじみや恋人が集まり、計画を練る、野っぱらで綱渡りの練習をする。

ちょっとだけ「冒険者たち」(ロベール・アンリコ監督・1967年)を思い出したりするが、こうしたシーンが、めざす現場たるニューヨークと、うまく対照になっていて、映画全体に、宜しき香りをもたらしています。

で、「冒険者たち」と言いましたが、この「マン・オン・ワイヤー」、一種、青春冒険映画なんですね。1974年夏の冒険。

それを30年以上経って振り返る。映画をつくった監督も、映画を観る観客も、プティ君たちが語る30数年前の冒険談を微笑ましく受け止め、そしてラスト近くに、冒険の対価=地上400メートルの綱渡りを得る。この対価は、私たちの予想を大きく上回る「すばらしさ」だったわけで…

 すごっ!

としか声が出ないのです。

星3つ半。


不満をひとつ挙げると、音楽。途中、マイケル・ナイマンほか、とてもいいのだが、クライマックスの綱渡りシーンは、サティの「ジムノペディ」だか「グノシエンヌ」だか(両方かかったような気がする)。個人的にサティをあまり評価しない(言い換えれば、好きじゃない)事情は差し引いても、「ジムノペディ」「グノシエンヌ」では、あまりに陳腐。ここはマイケル・ナイマンでよかったのでは?(あるいは無音)と思う。

余談。上のほうで何かやってて通行人が見上げ、そのうち警察官が集まってくる、というパターンは心躍る型のひとつ。ビートルズのドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー』のハイライトも、それだった。ビートルズがあそこで捕まって交番に引っ張られていたら、もっとおもしろい映画になったろうに(惜しい)。

「マン・オン・ワイヤー」は6月13日より全国順次ロードショー。あっしが観たのは20日(土)午後の回の新宿テアトルタイムズスクエア。ガラガラでした。こんなにおもしろいのにね。

2009/06/21

百合乃さん


無地の糊浴衣見たか百合乃の事務  井口吾郎

「週刊俳句」第112号「炉心もんしろ」より

むじののりゆかた。無地の浴衣なんてあるのだろうか。なんだか怖い。しかも糊がきいているのだ。ますます怖い。

百合乃さんは、ふだんは事務服で働いているのだろう。それがどうしたことか今日は無地の浴衣を着て、事務をしている。たまらなく怖いが、「見たか」と念を押され、目を背けるわけにも行かない。

この百合乃さんは、どろーんと長い髪をしていそうだ。

2009/06/20

オランダとデンマーク

古いCDプレーヤーが「もう寿命かもしれない」と思っていたら、寿命だったのはアンプのほうだった。鳴らなくなっては叩いて鳴らしていたが、叩く頻度がしだいに増え、さすがに買い換えることにした。

フィリップスのCDプレーヤーは1991年製だから、もう18年間、稼働していることになる。光学機械のCDプレーヤーは寿命が短いすだ。おまけにウチはそうとう過酷な使い方をする。それでも18年。これはすごい。その間、アンプは少なくとも3台は死んでいるのですから。フィリップス、恐るべし。

で、音はね、それもう、気に入っております。ボリュームを上げても、ガチャガチャしない。マイルド。

新しく入手したアンプは1500クローネ程度とお手頃価格のデンマーク製。デザインはまだ日本製と差がありますので、やはり北欧製に手がのびます。

これでCDプレーヤー、アンプ、スピーカーがそれぞれオランダ(Philips)、デンマーク(Tangent)、デンマーク(Jamo:ヤモと読むそうです)と、北欧っぽいラインナップになり、気分が落ち着きました。ありがとう!

って誰に? オランダ人とデンマーク人に。

2009/06/19

モータウン


町山智浩・GM破産で揺れるデトロイトとモータウン

デトロイトに残るモータウン・レコード本社家屋で。
次にガイドはスタジオの床を指差す。「あなたが立っているその床をマーヴィン・ゲイが掃いていたのです、彼は最初、清掃員として雇われました。『ダンシング・イン・ザ・ストリート』を歌ったマーサ&ザ・ヴァンデラスのマーサ・リーブスは電話番でした。そこのデスクに座っていたんです」
たまらないエピソード。


でね、ええっと、数年前だったか、「ドリームガールズ」という映画、モータウンのガールズコーラスグループをモデルにしたかのような映画がありましたが、あれで鳴っていたの、モータウン・サウンドじゃないですから。映画評とかで「モータウン・ファンは必見」とか書いてあるのを見ますけど、違いますから。

2009/06/17

火星


夜をかけて火星の渡る稲穂かな  ふけとしこ

稲田ではなく稲穂だから、「夜をかけて火星の渡る/稲穂かな」と切って読み、火星は空を渡るのだろう。けれども、その空の下には稲穂だけが広がっているような気もしてくる(切って読んだはずなのに一句一章のような効果)。

火星といえば、虚の句も多い。

  箱庭に火星の光とどきけり  雪我狂流

虚の句もいいが、掲句は「実」の句。秋、稲の匂いが漂うなか、火星が夜空をゆっくりと渡る。なまめく夜。


ふけとしこ句集『インコに肩を』(2009年5月・本阿弥書店)より。

2009/06/16

カンフー

「カンフー映画のカンフーシーンは、ミュージカル映画の歌のようなもの」
とは宇多丸氏の言。音声↓
http://s06.tbsradio.jp/redirect/utamaru/482857.mp3

至言。

もうひとつ。

「タイでは、人はエビより安い」

なるほど。

お知らせと消息


9の付く日のメール句会オクンチ、今回はわたくしめが当番やらせていただきます)。どなたさまもお気軽に。
http://www3.ezbbs.net/03/0123/

ウラハイ=裏「週刊俳」(6月14日)に「ネット拾読・思うところあって昼ごはんは西瓜」を書きました。
http://hw02.blogspot.com/2009/06/blog-post_14.html

2009/06/15

皮と川


『言葉のゆくえ』(坪内稔典・永田和宏・京都新聞出版センター・2009)を読んでいたら、

  を見るバナナの皮は手より落ち

との掲句(p48)。

高浜虚子作として知られる句は、掲げるまでもないが、

  川を見るバナナの皮は手より落ち

対談記事だから、録音を聞いて原稿に起こした人が「川」を「皮」にしちゃった誤植で、編集者の校正にも著者の校正にも洩れたのだろう(しかし洩れるか、こんな有名句)と思ったその直後、ひょっとしたら、虚子は「皮」でつくって、掲載時に「川」と誤植され、「あ、このほうがいい」と「川」を採用したという可能性もあるなあ、などと、しょうもないことを考える。

オリジナルは「皮を見る」だった説。

ないか。ないな。

2009/06/14

ダーレン・アロノフスキー監督「レスラー」


泣いた。ラスト近くからラストにかけて、号泣とまでは行かなかったけれど、大いに泣いた。

ミッキー・ロークといえば、なんたってあの「猫パンチ」である。1992年6月23日、両国国技館のメーンイベント、1ラウンドで相手を撫でるような「猫パンチ」でKO。テレビ中継もされていたので会場のみならず、日本中の失笑を買った。80年代を人気俳優(セックスシンボル!)として過ごしたミッキー・ロークが趣味だか道楽だかのボクシングで、負けるならまだしも、勝っちゃったから、しかも猫パンチだったから、これほど無様な茶番はなかった。

おまけにこのメーンイベントの前の試合がユーリ(勇利)・アルバチャコフの世界初挑戦。ムアンチャイ・キティカセム(タイ)を8回KOに降しWBC世界フライ級王座を獲得した、その素晴らしい試合のあとの「猫パンチ」だから、ボクシングファンにはたまらない(こんな劣等な興行を組んだ興行主やテレビ局が悪い)。この日、ミッキー・ロークを「男として最低ランク」に位置づけた人は、私だけであるまい。

それからはミッキー・ロークの名前は聞かなくなった。ボクシングは道楽以上のものだったのか何試合かをこなし、顔が崩れ、その整形でさらに顔が崩れ、二枚目俳優としての生命は断たれた。私生活でもトラブルが多く、仕事も干され、かつての栄光が見る影もない落ち目として長い時を過ごした。

そこで、この「レスラー」の主演である。主役の老レスラーは、20年前の人気と名声を引きずり、スーパーのパートタイムで糊口をしのぐ。家族からも見離され独居生活。老レスラーとリアルのミッキー・ロークはいやでも重なる。ボクシングとプロレスの違いはあっても(ミッキー・ロークのボクシングには過去の栄光などない、という違いはあるにしても)、落ち目ということでは、これはもうミッキー・ロークのドキュメンタリー。

映画の作りは、そのへんきっちり押さえてあって、カメラワークやセリフの処理など、劇映画というよりドキュメンタリーのタッチ。ミッキー・ロークの演技も抑制がきき、良い意味の「地で演ってる」感が滲み出ている。

「その人しか為し得ない一作」というのはたしかにあって、老ミュージカルスターをフレッド・アステアが演じた「バンドワゴン」などがそう。リアルを虚構で、虚構をリアルに、という多層構造をもった、この1回限りの大ネタは、素晴らしい映画になるしかなく、もし素晴らしくできなかったとしたら、監督は腹を切って、主役(フレッド・アステアやミッキー・ローク)に詫びるしかない。彼らはみずからのリアルをその映画1本に賭けさせられるわけで、撮り直しは効かない。

果たして、この映画の監督ダーレン・アロノフスキーは、知らない名前だけれど、凄い。プロレスのバックステージ(試合のダンドリ)から試合まで、数々の美味しいところを、アラの出ない見せ方できちんと見せてくれ、しかもムダがない。ひゃあ! この監督、じょうず! と感嘆。

助演の女優ふたりもいいが、たくさんのレスラー(本職なんでしょう)が演技者としてナイスな存在感。プロレスラーは、アスリートなんぞではなく、やはり(素晴らしい)アクターなのだといまさらに実感。

で、ミッキー・ロークはといえば、からだはレスラーを演じるのに充分とはいえずとも老境のレスラー肉体ではある。顔は前述のようにガタが来ている。そこに老眼鏡を掛けさせたり、スーパーの肉売場で透明のキャップをかぶらせたりと、外観を「情けなく」見せる演出がよく効いている。つまり、老レスラーは老レスラーであって、スターでもなく、カッコよくもない。それでもリングに上がっていくさまは、やはり美しい。

「猫パンチ」から16年を経て、映画「レスラー」へ、人気絶頂のセクシー男優から、老残を地で行ける一俳優へ。この落差(カッコいいことの無様さから、カッコ悪いことの輝きへ)が、泣ける理由の背景にある。

星4つ。

レスラーの死

映画『レスラー』の初日13日、観てきた。ところがその晩のニュースで、プロレスラーの三沢光晴が試合中に死亡したことを知る。なんとも悲しい奇遇。


映画の感想はまた改めて。

2009/06/13

千葉でワイン

死んだ山本勝之は数々のエピソードを残したが、なかでも私が好きなのは、何人かで千葉に遊びに行き、レストランで食事したときの話だ。

イタリアンっぽい店で、まずはワインを注文しようとメニューをめくっていたら、店の人のオススメが有機栽培だったか無農薬だったか忘れたけれど、ともかくそんな感じの葡萄を使ったワイン。じゃあ、それを、と、出てきたグラスを山本勝之がひとくち飲んで「ダメだ、これ」。

料理も出てきて、1杯目のワインが終わり、「ワインを」と声をかける。「おかわりですか?」みたいなことを言う店の人に…

「いや。これじゃなくて……からだに悪いワイン、ちょうだい」


んなこと言ってるから死んじゃったんだよ、と、知人たちは(私も)言うだろうが、それが山本勝之だったんだから、しかたない。

それにしても、よくぞ。こういうセリフ吐くときががいちばん輝いていたなあw

クストリッツァ監督「ウェディング・ベルを鳴らせ!」

2007年作品。渋谷シネマライズでの公開の最終日に駆け込みで観る。このところクストリッツァがマイブーム(死語)。

ひとことでいえば嫁取り物語。冒険活劇風味たっぷり。銃撃戦あり、友情あり。かなりスラップスティック。魅力的な敵役、魅力的なヒロインの存在がうれしい。で、いろいろ堅いこと言わずにハッピーエンドへとなだれ込む。

星4つ半。

細かいところで、クルマの天井に載せたローランドのちっちゃいギターアンプが、いい味でした。

ところで、ミハイル・バフチンを読んだことのある人が、クストリッツァの映画(「黒猫・白猫」「ライフ・イズ・ミラクル」、それにこの「ウェディング・ベルを鳴らせ!」等)を観たら、かならずや、「あっ、バフチンの『祝祭』の世界!」と思うはず。尋常でない高揚感を伴う結婚式(パーティ)のドンチャン騒ぎばかりではない。映画まるごと祝祭の稠密感と悦ばしいバカバカしさ。

ああ、たんのうしたざんす。


で、シネマライズは明日から、話題作、ミッキー・ロークの「レスラー」。

2009/06/12

盗作の顛末

『〈盗作〉の文学史~市場・メディア・著作権』(栗原裕一郎・新曜社・2008年)は、アカデミック風・社会学風の副題から想像するのといささか違い、分析や論理展開はほとんどなく、事実(顛末)説明がもっぱら。それはそれでおもしろく読めた。500頁近いその分厚さが事実の記録で埋め尽くされるだけに事例数は相当のもの。

盗作騒動は、盗作それ自体がどのような体のものか、より、むしろ、騒ぎになったときの「盗作者」の態度の如何が興味深い。

『「パクリ・盗作」スキャンダル事件史』(別冊宝島編集部編・宝島SUGOI文庫・2009年)もついでのように読んだが、こちらは少しとりとめがない。音楽分野の「パクリ」を、文芸作品と同列に扱うと、やはり妙なことになる。

2009/06/11

クストリッツァ監督「アリゾナ・ドリーム」


ライフ・イズ・ミラクル」と「黒猫・白猫」とたてつづけにDVDを観て、どちらもたいへんに面白かったクストリッツァ監督の1992年作品。主演がジョニー・デップで、ヴィンセント・ギャロが出ていて、ジェリー・ルイス、フェイ・ダナウェイという「特典映像的」キャスティング。おまけにベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。

となれば期待しないわけには行かない。

ところが、どうしたんでしょう? クストリッツァは2本を観て、「相性ぴったし!」と惚れ込んでいたのに、この映画…。

なんというんでしょう、この邪魔臭さ。

夢とか言われても困ってしまう。わかりにくいというのではなく、むしろ言いたいであろうことはダイレクトに構成されていて、それだからよけいに退屈。ジョニー・デップのナレーションが多くて、これがまた巧いというか魅力的なので、よけいに「ことば」的、言い換えれば思念的な映画になってしまったような気がします。

ジェリー・ルイスのキャスティングはツラかった。アメリカ性を体現して図らずも滑稽(かつ悲哀)という役どころだと思うが、「いにしえの滑稽」感がかなり浮いていた。


星、ふたつと半分。「ふたつ」でもよかったけど、ヴィンセント・ギャロが良かったので「半分」プラス。


さあ、気を取り直して、「ウェディング・ベルを鳴らせ!」(クストリッツァ監督j最新作。まだロードショーやってるはず)を観に行きましょう。

2009/06/10

相模湖


山本勝之の月命日の6日というわけで。

  勝之が消え鬼百合が咲いている  仁 (無断掲載!)

吟行句会というわけで。

  スワンボートを漕ぐべし愛を与ふべし  天気

1Q85


ボディブラシをボブディランと読んでしまった。

Bob Dylan - Tight Connection to My Heart
1985年当時の東京とボブ・ディラン。↓
http://www.youtube.com/watch?v=4P79EMaKnNw

2009/06/08

クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」


欧米には、というか世界中に神話の昔から、「養父」モノという物語の型がある。「養父」は「foster-father」というより、生物学的遺伝的父親(genitor)に対する社会的父親(pater)。このふたつは一致することが多いが、paterの存在が別にあって、いわゆる成長物語の大きな役割を担う。

「グラン・トリノ」の主演イーストウッドはまさしくpater。「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)のイーストウッドも同様で、あの映画は素晴らしい映画だったけど、終わり方がなんとも救いがないように私には思えて、重い。その点、「グラントリノ」は、先に逝く人(pater)が先に逝くぶん、すがすがしい。「「ミリオンダラー・ベイビー」で感じた後味の悪さが、この映画ですっきりしたという意味でも、「イーストウッドさん、ありがとう!」という感じ。

やはりイーストウッド監督で「許されざる者」(1992)も、イカレたカウボーイの坊やのpaterが、イーストウッド演じる老いた無法者という図式で、過去に心の傷をもつというところも、最後に、精神面・物質面両方の遺産を残してやるというところも、「許されざる者」と「グラン・トリノ」はよく似ている。paterという切り口でいえば、「グラン・トリノ」は「許されざる者」の現代版といってもいいくらいだ(もちろん違うところはたくさんある。「許されざる者」は成長物語が前面に出てはいない)。

「グラン・トリノ」の爽快感は、アジアの息子という設定で際立った。「許されざる者」がドメスティック(米国内)に終始するのと、ここが大きく違う。

若者タオの姉スー役を演じた女優の好演が、イーストウッドの「素」の好演に勝るとも劣らず、重要な役どころが、きっちり魅力的。ええっと、重要というのは、ちょっと理屈っぽくなるけど、成熟(paterたる老イーストウッド)と未熟(若者タオ)の媒介項、西洋(元フォードの組立工イーストウッド)と東洋(モン族家族)の媒介項として、とっても大切な存在。

ああ、ほんと、いい映画。爽やか、かつ、心に滲みる映画。

星4つ。


余談だが、観ているあいだ、苦虫を噛みつぶしたような表情で何かと怒りまくっているイーストウッドが、義父と重なってしかたなかったのだが、あとで、この映画を観た義父も、前半、自分を見ているようだったというのを聞き、「本人もわかるのか」とおもしろかったのでした。

2009/06/07

オーティス・レディング

Can't Turn You Loose
http://yamadarockets.blog81.fc2.com/blog-entry-96.html

オーティス・レディングの代表曲。邦題は「お前をはなさない」

日本中の運動会が、こうであってほしいなあ、と。

2009/06/06

半年

山本勝之が死んで半年が経った。去年12月6日に亡くなり、その病院から深夜帰宅して、そのままパソコンに向かい、週刊俳句のアップ作業。ちょっと迷ったが、後記で訃報を伝えた。そこにコメントを付けてくれた宙虫(そらん)さんの、そのコメントに返答を書くことができなったことを、自戒とともに思い出す。

「谷中の墓地を一緒に歩いたこと」は、私もよく憶えている。私は宙虫さんとも山本勝之とも同い年。宙虫さんとはネット上で知り合ってはいたものの実際に会うのははそのときが初めて。なのに、昔からの友だちのように感じた。山本勝之も同じだったろう。スカンポを言葉(季語)でしか知らない私に、宙虫さんも山本勝之も憐れみのような微笑を浮かべていた、その表情や挙措を、ありありと憶えている。その谷中の墓地の近くに、それから数年後に山本勝之が住むようになるのも、なんだか奇縁だ。

山本勝之を思い出すことは、ふだんそんなにない。けれども、週刊俳句や自分のブログに何か書くとき、ある種のものについて、「山本勝之なら、喜んでくれそうな記事だ」とか「言い方だ」とアタマのなかで想像している自分がいて、彼の生前、彼を読者に想定して書いていた記事があることを気づいた。何かに毒づく記事、ちゃかす記事。山本さんは同調し、楽しんでくれるだろう、と楽観的に期待しながら書いていた記事が、たしかにあった。

今日これから、相模湖に句会に出かける。相模湖の奥にある貧相な休憩所の婆さまと、山本勝之は何度か吟行の折に立ち寄るうち、親子のように親しくなっていた。あるいは山中に暮らすヒッピーの相手になったり、得体の知れないキノコを持ち帰り、食べ、からだをおかしくしたり(おかしくなりたくて食したのだが、別の方向におかしくなったらしい)、相模湖は、山本勝之にとって、ちょっと特別な場所だったと思う。

その相模湖に、半年後の命日というのがあるのかないのか知らないが今日6月6日、山本勝之を知る友人たちが集まるというのも、奇縁だ。

  揚羽蝶飛んで世界は始まったばかり   山本勝之

大袈裟だなあ。なにドラマチックしてるんだよ。でも、忘れない一句。

ダニー・ボイル監督「スラムドッグ・ミリオネア」


貧民街と貧民窟の違いは何か? 貧民街を撮る社会派ドキュメンタリー、貧民窟が舞台の冒険活劇。

「スラムドッグ・ミリオネア」は後者。冒険も活劇もそれほどでもないけれど。

冒頭近く、貧民窟の子どもが野を走り、A.R.ラーマンのシンフォニックで広がりのある音がどーんと流れると、すでに映画的満足感がほぼ満たされる。

アカデミー賞8部門受賞のわりには…と残念がる声も多いが、仄聞するにアカデミー賞は映画会社その他のロビイングがモノを言う世界。賞とったから良いという思い込みさえなければ、ふつうに楽しめる娯楽映画。

ここからはネタバレを含む。主人公の青年はクイズで正解を続け、ついに億万長者となるが、隠れた才能(ずば抜けた記録力etc)があるわけでもなく、努力した(働きながらも驚異的な読書量etc)わけでもない。マジメはマジメだが、したことといえば、幼なじみの女性に執着したことくらい。負の境遇から抜け出そうともがき努力したのは、むしろヤクザの兄のほう。

億万長者になれた理由は、映画が最後に言うような「運命」ではなく「運」のように思えてしまう(そういえば、destinyとluckは似ていないが、運命と運はよく似ている)。

世紀の名作ではないけれど、1年に何度か観る映画のうちの1本としては充分に及第点の娯楽映画。

あ、そうそう、みのもんたはインドにもいる、あのキャラは普遍的だと、妙に納得できる映画でもあります。

星、3つ半。

2009/06/05

蚯蚓

蚯蚓という漢字は憶えやすい。虫偏に「丘を引く」。蚯蚓が丘をずるずると引いてゆくさまは、そのまま頭に入りやすい。だから、辞書を引いたのは漢字を知るためではなく、旧仮名遣いで「みみず」なのか「みみづ」なのかを調べるためだ。

果たして「みみず」だったのだが、副産物があった。ミミズは「貧毛綱の環形動物」なのだという。貧毛といわれるまで、あの手の生き物に毛を意識したことはなかった。環形とは、まるい、ということか(ちがうか)。

ミミズは、毛が貧しいどころか、無毛だと思うのだが。

  みちのくの蚯蚓短し山坂勝ち  中村草田男

辞書に曰く「目はないが光を感じる細胞がある」。これはなんとなく聞いたことがある。「全世界で約二七〇〇種が知られ、体長2〜5ミリメートルから3メートルに及ぶものまである」。3メートルにはさすがに吃驚。

引用

引用。それも露骨な。それを音楽用語で「サンプリング」というらしい。

引用は、愛好の表明であり、経験の編集であり…だから、良き引用に満ちた創作物は、とても良い。

出典 Patti Page: Old Cape Cod 1957


Groove Armada: At the River 1997 ※2分40秒あたりから

クストリッツァ監督「黒猫・白猫」


ドナウ河畔に住むジプシーの父・息子とその周辺に巻き起こる、なんだかんだ、すったもんだ。

クストリッツァ監督の映画は「ライフ・イズ・ミラクル」に続いて2本目。これもほぼ最高(「ライフ・イズ・ミラクル」が星4つ半だったから、星4つ+4分の3)。この監督と自分の相性が良いようで、テンポ感から細部、音楽まで、ほとんどツボ。役者もことごとく良くて、とりわけ爺さま2人が抜群(うちひとりの写真→)

きほん楽観。人生は、この世は、つまり素晴らしい。陳腐にではなく描ければ、これにまさるテーマはない。


英語字幕なら全編、YouTubeで観られますね。↓
http://www.youtube.com/watch?v=3WbX9Q5SjZg
私が観たDVDの日本語字幕で大立て者の爺さん(上の写真)を呼ぶのに「ゴッドファザー」という字幕を宛てていたのが気になって(違うだろ、それは)、英語字幕を観てみると「boss」だった。

過去記事≫クストリッツァ監督「ライフ・イズ・ミラクル」

2009/06/04

ミニ氷河期?

弱る太陽 活動200年ぶりの低水準
太陽の活動が200年ぶりの低水準にまで落ち込んでいる。これまでのパターンだと再来年には活動の極大期を迎えるはずなのに、活発さの指標となる黒点がほとんど現れない。研究者も「このままだと地球はミニ氷河期に入る可能性がある」と慌て始めた。

温暖化、氷河期、いったいどっち?

というか、温暖化ビジネスの危機?

というか、「ミニ氷河期」という言い方、軽い。

  海に太陽バドミントン選手ら負けて笑ふ  橋 閒石

2009/06/03

「こしのゆみこ」という不思議な生き物


  ひよこ売りについてゆきたいあたたかい  こしのゆみこ

2009年4月に第一句集『コイツァンの猫』が出るずっと以前から、この句はよく知られた代表句のひとつ。こしのさんの句柄について「癒し」という語を口にした句友がいたが、なるほど、気持ちがほぐれる。この句はその典型。近年の流行語としての「癒し」に結びつける気はないが、なんだか、すべてが快方に向かうような効果がたしかにある。

だが、それだけが、こしのさんの俳句の魅力ではない。というか、それはほんの一部の「付加価値」に過ぎない。

結論を先に持ち越してもしかたがない。こしのさんの俳句の最大の魅力は「ヘン」にある。

 

こしのさんの句は「ライトヴァース」と呼ばれていた時期があるという。こちらについても、なるほどそうかと思う。

海程入門当初から、私の俳句はライトバースといういわれ方をされた。私はこの言葉のノー天気なニュアンスがきらいだった。句会で「稚拙」ともいわれたがこの方が納得がいく。実際私は稚拙ながら、思いこみの激しい「せつない」俳句を作っていた。作りながら、目が熱くなるのである。
こしのゆみこ「越野商店の幻想俳句から」
http://hwopt.gate01.com/necomachi/gensou.htm

ライトヴァースが蔑称とは思わないが、本人が「ライト」に、ではなく、重く、「思いこみの激しい「せつない」俳句」と自認するなら、ライトは不本意だろう。だが、ここがかんじんなのだが、こしのさんの言うほどの「思いこみ」は、俳句に現れていないし、重くも激しくもない。

  昼寝する父に睫のありにけり

  夏寒き父仁丹のひかりのみこむ

  夏座敷父はともだちがいない

「父モノ」は数は多くないが、この句集で重要な位置を占めているように思える。前掲の短文「越野商店の幻想俳句から」を読めば、こしのさん本人のこころの中に占める重要性も理解できる。これらの父モノは、たしかにせつないが、重くはない。軽い。軽さの良さがある。

  昼寝する父に睫のありにけり

ふわふわと羽になって飛んでいってしまいそうな軽さ。この軽さは、泣ける。

「仁丹のひかり」はやや技巧的、「ともだちがいない」の直截さは「せつなさ」に向かうつもりが諧謔へと道を迷ってしまうタイプの句だ。

で、このあたりで、句集『コイツァンの猫』から気ままに9句。

  海見えてまだからっぽの白い蚊帳

  主人公みたいな名前競泳す

  夏の川ゴールデンタイムちらちらす

  トースターテッペンカケタカ麺麭跳ンダ

  つんのめる時鷲づかむ虹のしっぽ

  半身が蝉になるほど泣いており

  寝返りを打つたび見える滝の筋

  籐椅子にひっかけておく青い川

  朝顔の顔でふりむくブルドッグ


さて、話はどこまで行ったっけ? ライトをめざさず、せつなさをめざしたはずのこしのさんだが、その句は、意図とは別のところにたどり着いているとしか思えない。このあたりが大いに「ヘン」なのだ。そしてこれはもちろん稀有な「ヘン」さなのだ。水道工事の人が水道を引いた。そのつもりが、蛇口を捻ると、水じゃないものが出てくる。そんな感じ。

こしんさんとはたびたびお会いし、「リアルこしの」を存じ上げているので、いまここでさかんに言っている「ヘン」は、俳句作者のこしのさんのことであって、リアルの話ではないとことわっておかねばならないが、実際のこしのさんも、ヘンじゃなくはない。変わり者と言われたことがあると思う。だって、変わっているもの。

それは悪いことではない。稀有で高貴な「ヘン」と言ってもいいだろう。簡単に言えば、常人とアタマの回路が違う。常人の水道管とは違うのだ。

  しあわせの順番が来てバナナ剥く

  青年の時計大きい盆踊

  えんぴつで描く雨つぶはひぐらし

  涙目にとんぼじゃぶじゃぶふってくる

  姉家族白鳥家族食べてばかり

随所に、奇矯ではない不思議さがある。奇矯は操作的・意図的なものだから、俗に堕しやすい。こしんさんの「ヘン」は、俗とは離れ、典雅な「ヘン」ぶりを発揮する。かんたんに言えば、「天然」なのだ。

 

俳句に対して「ライトヴァース」との語を用いる場合、定型からの(程度差こそあれ)逸脱、口語、季語その他俳句的伝統からの自由(放蕩)などを指すのだろう。

そのうえでライトヴァースの成功と失敗を考えてみると、俳句の定型・定石の恩恵を大きくは受けないということだ。ふつうの人間、つまり凡人は、好きなことをしゃべらせると、とことんつまらないことを言い出す(この駄文がまさしくそうなわけで)。俳句(定型・季語その他)は、その「防止」である。

つまらないこと(というのは些事の意味ではなく、掛け値なしのつまらなさ、退屈で凡庸なこと)を口にしないために、定型(短さ・五七五)その他があるということだ。

だから、凡人がライトヴァース的俳句をやると、とことんつまらないものしか出てこない。定型や俳句的決まり事という枷を取り外したら、ダメダメにくだらないことを自由に語りはじめるわけだから、これは自明だ。

ところが、凡人ではない人、例えばこしのさんのような「ヘン」な回路を持った人は、その限りではない。それをライトヴァースと呼ぼうが、「せつない俳句」と(友蔵俳句ばりに)呼ぼうが、どっちにせよ、なんだかヘンテコリンに素晴らしいもの生まれてくる可能性がある。

つまり、凡人を好き勝手に振る舞わせても、ロクな芸は見せないから、俳句形式(定型)という枠を与えて、その範囲でモノを言わせておく。一方、変人は、自由に放し飼いにするほうが、おもしろいことをしてみせる。比喩で言えば、そういうことになる。

  桃咲いてぼおんぼおんと人眠る

  びしょぬれの桜でありし日も逢いぬ

  東階段ヨナヒム君卒業の手を振る

ふつう「ヨナヒム君」なんて出てきたら、あざとさが目に付き、しらけてしまうのだが、なぜだろう? こしのゆみこさんは、やはり天然の、稀有で不思議な生き物なのだと思う。

この不思議な生き物の発する俳句が、私たち凡人に不思議と驚きを与え、世に暮らす普通人の精神の疲労や病症をやわらげ、精神の快方へと向かわせるのである。

サンドイッチ句会

句会後の飲食にふとサンドイッチ・パーティを思いつき、実行。パーティの語にさほど意味はない。手巻鮨パーティ(そんな言い方があるのかどうか知らないが)の要領で、パンと具を並べ、各自が好きなように挟んで食べる。これが意外に楽しい。

パンはサンドイッチ用にスライスしてあるトーストパン、具は、ベーコン(厚めに切って焼く)、スモークタン、アボカド、レタス、トマト、とんかつとコロッケ(近くの肉屋で揚げてもらった)など。

せっかくサンドイッチなんだから句会後ではなく句会をやりながらつまむのが本道? 具はもっとヴァリエーションが出る。反省は今後に生かすとして、この楽しさはつまり「屋根の下のピクニック」。

で、時間を遡るが、句会は席題8題。8人でおよそ150句。

  てんとむし村に電化の灯がともる  天気

いったいいつの話だ?というツッコミをお約束のようにいただき、本望本懐多謝深謝。

句会場の喫茶店キャットフィッシュの関さんにライオネル・ハンプトンの「スターダスト」を焼いてさしあげると約束。ところが見当たらない。CDは山積みでランダムが私の整理法なので、首を横に曲げて探したが、出てこない。




スターダストの(当時)演奏はYouTubeにも見つからないので「フライング・ホーム」。家に飛んで帰る、なんて、素敵です。

あ、サンドイッチ・パーティ、オススメです。おなかが冷えてしまうという人のためにスウプを用意するといいかもです。これもわざわざ作っておくんじゃなくて、缶スウプを何種類か並べておいて、好きなのを自分で温めるというスタイルがいいかもです。

2009/06/02

風船

阪神・南信男球団社長が1日、新型インフルエンザ対策として甲子園で自粛していたジェット風船を、5日のオリックス戦から復活させることに前向きな姿勢を示した。(サンケイスポーツ2006月02日)
ファンの声は、6割強が「やめちゃった方が良い」なんですが? →http://torao.tblog.jp/?eid=222715

2009/06/01

消息 2009年5月末

ウラハイ2009年5月31日号に「鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす」を書きました。
http://hw02.blogspot.com/2009/05/blog-post_31.html

週刊俳句第110号に「『俳句』2009年6月号を読む」を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/05/20096.html