2009/08/01

変なものは変なままに こしのゆみこのブルドッグ

分析理論やら読解の集積やら熟慮やら、それはそれで有意義な「読み」の道具を総動員するのも一手ではあろうが、それとは別にヘンテコリンなものをヘンテコリンなまま受け取る。その衝撃力を緩和することなく受け止めることも、たいへん意義深いことだと、これはもう本気で思っているのだが、比喩をめぐって【後編】とりはやし vs 野蛮の二物~こしのゆみこ句集『コイツァンの猫』を読むが「週刊俳句」に掲載されたあとも、その思いはじわじわと強まりつつある。終わった対話(+高柳克弘氏)を蒸し返すというのもなんだが、許してもらおう。もうすこし巧い強弁のしかたがあったなあ、と反省。

いや、こしのさんのこの句なんですが。

  朝顔の顔でふりむくブルドッグ  こしのゆみこ

首から上が朝顔のブルドッグに振り向かれたら、それはもう吃驚ではないですか? 

「喩」や「彩」を感じるまえに吃驚してしまう。こうした場合、句のスピード感、「喩」や「彩」へと思いを到らせる前に衝撃を与えてしまうようなスピードが最もたいせつなことで、この句の場合、中七の「顔でふりむく」のシンプルさ、直截さが、充分なスピードを生んでいる。

余計なことを言う、ぐだぐだ言い回す、本人は一生懸命描写している。そうした「手の跡」「指の跡」のようなものが、句のスピードを損なう原因になってしまうわけだが、この句は、すっきりそうしたものから逃れている。

句のスピード感というのは、実感的にはかなり重要なのだが、それ以上にうまく言えない。それは、まあ、今後の課題にするとして、この句。

とってもヘンだ、わけがわからないヘンだ、という衝撃。それは、何かを読む、何かを味わうえで、至高の価値のひとつだろう。

千野帽子・「わかりません。教えてください」とウェブ掲示板に書きこむ前に。
「あるある的な読み」だろうが「道徳的・教訓的な読み」だろうが「現代思想的な読み」だろうが、カフカの小説の字義のインパクトを削減し、未知のものを既知のものに置き換える作業になりかねない。(…)やっぱり、朝起きたら虫になってるって、変ですよ。(千野帽子・前掲)


ところで、喩というからには二者の間になんらかの類似・相同がないといけないはずだが、ブルドッグと朝顔って似ているか? 鶏頭のほうがよほどブルドッグに似ていると思うのだが。


朝顔とブルドッグって、「喩」でも何でもないんじゃないのか。

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