2008/11/15

テアトル新宿という6文字

…には特別のものがあります。前半「テアトル」にも、後半「新宿」にも。

70年代というか、そういった。

若山富三郎×勝新太郎の軌跡 11/15(土)~12/5(金)

 

〔新着目録〕
●金子兜太 一茶句集 岩波書店 1983 初版 定価1,700 カバー(ヨゴレ)・コグチ(少ヨゴレ)  500
●鈴木漠編 連句集 花神帖 編集工房ノア 2003 初版 定価2,500 カバー・帯(美) 1,000

 

2008/11/01

開店しました

11月1日。キリの良い朔日ということで。

目録は一挙公開ではなく、日を置いて揃えていきます。

談話室を設けました(右サイドバーの上の「談話室」の文字をクリック)。もじどおりの談話室。雑談でもなんでも書き込んでっていただければ嬉しいです。お知らせもここに書き込みますので、ときどき覗いてみてください。

2008/10/30

ええっと、ですね 2

華々しく開店、というのがふつうなんでしょうが(ここまで引っ張ったし)、地味に、なんとなく始まった、というのも、アリかな、と。

開店間近、かも、ということで、それまでビデオでも観てお過ごしください。
(ときどき換えていきます)

THE WHO -QUADROPHENIA- Photo Book

2008/10/28

ええっと、ですね


開業に向かって、着々、とは行きませんが、その方向に向かっていることだけは、たしか。

2008/10/21

2008/10/20

ロハスとは?

ロハスの胡散臭さは、簡単な話、マーケティング用語を、商売するほうはともかく、商売されるほうが手軽に口にする、そのことから来ている。

ロハス(Lifestyles Of Health And Sustainability)とは?→http://mscience.jp/nolohas.htm

一般に、「それ自体は良いことなんじゃないの?」といった分野は、それ独特のエグいことが起こる。エコとか、福祉とか。

本人は胸張ったりしちゃうぶん、後ろめたい商売分野よりも、タチが悪いのですね。

2008/10/19

大統領の器

米大統領選の帰趨はすでに決まったらしい。

共和党候補のジョン・マケインという人は、私の知る範囲で(もちろんそんなに知っちゃいない)、りっぱ人、魅力的な人なんですけどね。残念です。

参考(Wiki)

もっとも、アメリカ人の気分の主成分は Anybody but Bush (ブッシュじゃなければ誰でもいい)。どっちが勝ってもブッシュよりはマシだろうという空気だったのだと想像する。

ブッシュでアメリカはガカガタになり、小泉というイチビリの政治家のせいで日本はボロボロになり、ジーコによって日本サッカーの10年が失われた。次元がぜんぜん違うが、誰かを選ぶことは合理的に行かないし、当たり籤もなかなか引けないようだ。

2008/10/18

マンフレッド・マンの不思議

週刊俳句の動画、10月12日から1週間は上田信治さん見繕いのマンフレッド・マン特集。信治さんの解説はこちら

マンフレッド・マンについては「イギリスの古いポップバンド」くらいしかイメージがなかったが、上記解説を読み、動画を見て、ちょっと気になって、ネットで少し調べてみると、とても不思議なバンドに思えてきた。

何が不思議かって、その存在感のなさ。

レコードデビューは1963年。キンクスやザ・フーより1年早く、ローリング・ストーンズと同年。この3つのバンドはメンバーが変わりはしたが、まだ現役。マンフレッド・マンも、その歴史といまだ現役(現在の公式ホームページ)という点で、3バンドと共通するが、存在感という点ではダンチ。

…と思う。少なくとも日本で暮らしているぶんには、マンフレッド・マンなんて、ずうっと聞いたことがなかった。

ストーンズ、キンクス、ザ・フー。こう並べると、りっぱに「英国ロックの半世紀」という感じがするが、そこにどうしてもマンフレッド・マンは入ってこない。60年代から、ずうっと活動はしていたらしいのに…。

ざっとバンドの歴史を見てみると、70年代、マンフレッド・マンズ・アース・バンドという時代、これがどうも、大きなマチガイだったっぽい。YouTubeでも観られるが、突如、アートロック(!)というか、スワンプというか、アーシーというか、ヒッピーの真似というか、そんな感じで、ポップ音楽業界・ヒットチャート・芸能界の表舞台からドロップアウトしてしまった感じだ。

キンクスもRCA時代といって、アメリカ音楽の凝った路線に傾いた時期があったが(私はこの時期がいちばん好き)、ロックンロールへの回帰は、驚くほどあっさりと素早かった。ここでカムバックするんですね。

繰り返しますが、不思議です、マンフレッド・マンの存在感のなさ。

トリビュート・アルバムも見たことがない。キンクスなんて、こんな怪しげな、絶対聞きたくないトリビュート・アルバムまであるというのに。

暇なとき、ゆっくり研究してみるざんす。

2008/10/17

サボテンな散歩





東京都台東区根岸

2008/10/16

アルトゥーロ・サンドバル


↓不動産屋の社長みたいなオッサンがアルトゥーロ・サンドバル。キューバ生まれのトランペット奏者。ディジー・ガレスピーとの共演。



ところで、Gillespie。Gi なのに、なんで「ガ」レスピーなんでしょう? むかしから不思議に思ってます。

2008/10/15

はくびしん

夜中、町内で、はくびしんを見たときはやはり吃驚しましたよ。

いたんです。塀の上に、ね。

最初はたぬきかと思いました。ペットが逃げ出して、町なかにはいろいろな獣が棲んでるんでしょう。ふだん気がつかないだけの話で。

しかし、逃げ出したのが1匹だけだと交尾ができない。やがてその個体が死んで、おしまい、ということなんでしょうか。

ひょんなことから異種交配が起こるなんてことはないんでしょうか。そうなると、さらに多種多様な獣が町に繁殖することになります。

そのへん、専門家に訊いてみたい気がすごくします。

2008/10/13

若すぎて

もらいもののCD(プライヴェート・コンピレーション)に入っていた曲。



too young.

なんと甘美なことばだろう!

2008/10/12

地図の効用

旅行に出かける。いつ、とは言えない。いろんな事情があって。

きょう旅先の地図を広げた。

とたんに、自分の中で、旅が盛り上がりはじめた。もう幕がぱーっと上がって、バンドの音がバンっといっせいに鳴ったくらいに、盛り上がった。

地図とは、すごいものだ。

あたりまえだけど、いまさらながら。

2008/10/11

戦後最大のミステリー

テレビドラマという名の学芸会は、見ない、と言っているくせに、昼ごはんを食べているとき、NHKの連続ドラマが点いていた。

双子の女の子が主人公とか
。カミさんは「見る」と決めて、だいたいは見ているらしい(前の連続ドラマ、月島が舞台のドラマは「見る」と決めたのに数回で挫折していた。「めまいするほどつまらない」と言って)。

今回の連続ドラマは、今のところ期待大らしい。カミさんがあらましを説明してくれる。

なるほど。ポイントはそこだな、つまり、宍道湖のシジミ採りの漁師さんが、どんないきさつで京都の舞妓さんだか芸妓さんだかと、二子をもうけたのか。

これは戦後最大のミステリーかもしれない。

2008/10/10

ニュースの合間の一曲

今夜もラジオの話題(引っ張る引っ張る)。

J-WAVE(東京のFM局)の「ジャム・ザ・ワールド」という番組がある。

月曜日から金曜日まで20:00~21:50。ニュース番組。ヘッドライン(ストレートニュース)は簡潔で、時事トークとでもいうべき時間が多い。

途中、20:40から10分間、「ロハス・トーク」といってソトコトという雑誌の人が出てくる。この10分間は、他局に切り替える。「ロハス」とか「ソトコト」とか、大の苦手というか大嫌い。なので、切り替える。なぜ大嫌いなのか、うまく言えないが(またゆっくり考えて、どこかに書くかもしれない)、ともかくその10分間は聞かない。

で、この「ジャム・ザ・ワールド」、ニュース番組として落ち着いて聞け、テーマの取り上げ方もおもしろいのだが、それよりもちょっと「なぜ?」とびっくりしているのが、選曲。

コーナー間に1曲、という感じで流れるだけなのだが、この選曲が素晴らしい。新しいところが多いからだろう、知っている曲は少ないのだが、きわめて高確率で自分の趣味にフィットする。いや、自分の趣味との相性というだけでなく、その懲りよう、いわゆるセンスの良さがラジオ全体のなかでも抜きん出ている。

ラジオの音楽番組ではなくニュース番組。その選曲が素晴らしい、というのは、ふつうに考えるとヘンだが、実はそうでもない。音楽番組は、音楽ビジネスと密接に絡むので、個人のセンスをそのまま反映した選曲はできないのだと思う。ニュース番組では、曲は添え物。だからこそ、幅広く自由なセレクトができるのだと推測する。

ともかくJ-WAVEが聞けるなら、夜の「ジャム・ザ・ワールド」、そこでかかる曲を聞いてみてくださいませ(曜日によって選曲担当は変わるかもしれないが)。ニュースや時事問題の合間に流れる音楽がいいと、とても気持ちのいいものですよ。

2008/10/09

さ、ラジオを聞こう 2

椅子に坐って唄う。電波が飛ぶ。たらっとした時間が気持ちよいです。

Corinne Bailey Rae Put Your Records On

2008/10/08

さ、ラジオを聞こう

この数年、ラジオをよく聞く。

  寺山忌ラジオのごとくうづくまる      五十嵐秀彦

掲句は五十嵐秀彦さんのブログから引いた。寺山忌は5月4日。ブリジット・フォンテーヌ「ラジオのように」(Brigitte Fontaine - Comme à la radio 1969)が踏まえられていることは、作者・五十嵐秀彦さんがブログでこの曲に触れていたことからも明らか。

「うづくまる」はいかにもラジオだと思った。

 ●

ところで、句から離れるが、ラジオでしゃべっている人は、基本的に坐っている。うずくまるまで行かなくとも、立ってはいない。走りまわりもしない。

テレビのなかの人たちは、立ち、走り回り、はしゃぐ。もう、そういうのはいい、と思っている人が多いと思う。私自身はほとんどテレビを見ない。スポーツ中継はたまに見るが、音は消す(倉敷保雄のサッカー中継を除いて)。

テレビドラマという名の「学芸会」、バライエティと呼ばれる「芸人の宴会」を、そろそろ皆が飽きてもいい頃だ。ニュースも、映像がなくて結構。テレビは、(スポーツ中継を含めた)ドキュメンタリーだけでいい。

あとはラジオがいい。

2008/10/07

エレガントな抽斗

「知識についての知識について」
http://blog.tatsuru.com/2008/09/24_1730.php
内田樹と町山智浩という、愛読ブログふたつが接近。

ネット検索があれば、「無知」が数分後には「博識」に化ける。 知識はすぐに備わる。たくさんの抽斗をいっぱいにするくらいの書類は誰でもすぐに集められるけれど、「ああ、こりゃあ、エレガントな抽斗だなあ!」というケースはきわめて少ない。

問題は、そこなのです。はい。

抽斗は多いが、未整理でごじゃごじゃ、というパターンも多い。

いったい何に使う抽斗なのか、という問題はさておいても、である。

  

このことはどんな分野にも言えることだが、例えば、俳句。

むりくりの展開?

題詠をやらせると、「こいつ、化け物か」というお年寄りがいる。思考の瞬発力という点では、私と同年代の「俳句じょうず」や若い才気煥発な俳人くんたちのほうに分がありそうだが、実際のところ、こうした「化け物」的ご老人の足下にも及ばない感じ。

何が違うのかといえば、抽斗のエレガントさ、なのだ、きっと。

抽斗に入っているもののクオリティ、そして、何かが俳句へと形をむすぶ、その回路の豊富さ、その整理の良さ。すべてをひっくるめてエレガント。

わたくしもせいぜい精進します。でも、あと、少なくとも50年はかかるので、そのはるか以前に寿命が尽きる。

自分自身に「ご愁傷さま」と言ってあげたい夜。

2008/10/06

月の光

Claire de Lune

2008/10/05

エレキ三味線

『記録の百科事典・日本一編』(紀田順一郎・間羊太郎編・1971年)を読んでいたら、「エレキ三味線」という項目があった。

最も音のでかい三味線は、1929年(昭和4)6月、神原重次と石田一治によって製作された「電気三味線(咸弦)」で、皮のかわりに薄いベニヤ板を用い、内側の隅に電気の差し込みソケットをとりつけ、コードをアンプにつないだもの。さしずめエレキギターの日本版と思えばよいが、当時はアンプなどに良いものがなく、効果も思わしくなかったので、まもなくすたれた。

なんだか、すごい楽器だが、ほんとかなあ。

この「事典」、いろいろな日本一についての説明で埋まっているが、実用度はほとんどゼロ(1971年事典で日本一音のでかい楽器が「エレキ三味線」だったことを知って、何になる?)。ところが、読み物としては、けっこうハマる。

紀田順一郎の本には、ハズレがない。濃い内容でも、ゆるい内容でも(この『記録の百科事典』は典型的に「ゆるい」ほう)、どちらもそれなりに楽しめてしまう。

2008/10/04

三味線ブギウギ

猫髭さんキッパリ曰く、「琴とハープはジャズに合いません」。

そうかも。

でも、三味線とブギは合いますぜ。市丸さんの昔から。

2008/10/03

蝉がセミヌード? どこで笑えと?

滑稽俳句協会なるものが設立されたとか(↓)
http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008092701000109.html

記事の冒頭、こうある。
「蝉殻をぬぎつつあればセミヌード」。この句にニヤリ、クスリとしたあなたはどうぞ入会を。

協会設立の趣旨はよろしいのでしょうし、私自身、俳句の滑稽味を大いに楽しむタイプ。他人様の為されることに水を差すつもりもない。

だが、この「蝉殻を」の句を滑稽と言い、これを滑稽俳句と呼ばれてしまうと、すごく困ってしまう。泣きたくなります。

俳句愛好者として、残念でならない。俳句の滑稽とは、こんなもんじゃない、もっともっとおもしろいものなのに、なあ、と。

知らない人がこの記事を読んだら、「俳句の滑稽って、この程度か」と思うだろう。それがくやしい。

記者が適当に挙げた句に過ぎないにしても、です。

2008/10/01

ロージナ茶房

大井恒行「高屋窓秋とロージナ」(『現代俳句』2008年10月号)を読み、高屋窓秋や三橋敏雄が、国立駅南口のロージナ茶房をよく利用していたことを知った。ロージナ茶房なら30年以上前から知っている。若い頃はよく利用もした。

高屋窓秋や三橋敏雄は、私にとって「俳人」ではあっても、生身の人間のようには思えない。句とともに黒く印字された四つの漢字が、高屋窓秋であったり、三橋敏雄であったりする。

もちろん、彼らは人間である。喫茶店でお茶を飲んだりもしたのだろう。それでもやはり、私がよく知っているあの店のビニール張りの椅子に高屋窓秋や三橋敏雄が腰掛けていたと、そう想像しても、ほとんどピンと来ない。

「著者」「作家」は、私にとって不思議な存在だ。例えば、読者として尊敬や愛情をもって接した「著者」「作家」と実際に会う機会を得たとき、それを「うれしい」と思う人もきっといるだろうが、私の場合は、そうではないようだ。どうしていいかわからなくなる(実際、何度かそういう状態になったことがある)。挨拶くらいはできるが、それが精一杯になってしまう。

黒く印字された名前の持ち主が、肉体をもって、自分の目の前にいることの奇妙さから、なかなか抜け出すことができないのだ。これはまあ、幼児が、絵本のなかの出来事と現実の区別がつかないことと、すこし似ているかもしれない。

2008/09/30

ポール・ニューマンが死んだ


9月26日、ポール・ニューマンが死んだ。自分のなかのポール・ニューマンは、十代で観た「明日に向って撃て!」「スティング」がはじまり。けれど、やっぱり、なんといっても、後追いで観た「ハスラー」(1961)と「暴力脱獄」(1967)。

ひりひりする映画。それぞれすこし違った「ひりひり感」なのだけれど。


The Hustler (main credits)




2008/09/29

俳句賭博

遊びというのは、軽くノッけると愉しさが倍増することがある。「ノッケる」は、オカネを賭けるの意。たくさんでなくてよい。小バクチ。ちょうどいいあんばいのレートは個人によって違う。ちょっとピリっとするくらいがいい。

句会でオカネを賭けるというのは、水商売の人たちがやっているという噂は聞いたことがあるが、実際には見たこともない。

句会も軽くノッけるとおもしろくなるのか? 思うに、句会全体が小バクチの場となるのは、あまり感心しない。それにだいいち、「俳句も軽くノッけると愉しい」と思ってくれる人はあまり多くないと思う。そこで名案がある。

「サシ馬」を使うのだ。麻雀などでよくやるやつ。その場全体での勝敗とは別に、一対一でノッける。

まず「サシ馬」の相手を見つける。句会のメンバーには、賭事のことはいっさいしゃべらない。ふつうに句会をこなす。サシ馬の相手とは、選の点数を競う(お互いの高点句の点数を争う、総得点を争うなど、ノッけ方はいろいろ)。句会後に精算。

出句数・選句数が決められた句会に限られるが、リアル句会・ネット句会の別は問わない。一度やってみたい。誰か、この話に乗りませんか?

2008/09/28

スイッチ

スイッチが入る、という言い方がある。何かを読んでいて、観ていて、聴いていて、ぱちんとスイッチが入るときがある(巷間使われているのとは違う意味かもしれない)。

その瞬間について説明しようと思えば説明できるのだろうが、自分にとてはスイッチが入ったことが重要で、「なぜ」はあまり意味を持たない。

なぜか知らなくてもスイッチは入るし、むしろなぜだかわからないことのほうが、入る。

写真は、黒田硫黄の「大日本天狗党絵詞」第一巻、扉は数えずに6ページ目、コマ数でいえば24コマ目。口から鴉が飛びだしたその瞬間、

はちん、

とスイッチが入り、物語にすぽっとはまって、そのまま。

2008/09/27

ノンブル付きの手帳

ノンブル(ページ番号)の印刷された手帳は、まだ見たことがない。日付の入った手帳ではない。メモ帳。

なぜ、ないのかというと、不要だからだろう。

しかし、メモ帳を使っていて、たまにノンブルが入っていたら便利だろうに、と思うことがある。関連のことを記したページがあったと思って、めくって探す。見つかったとき、付箋くらいしか目印の方途がない。ノンブルで参照をメモできたら便利だと思う。ほんのたまに、だけれど。

どこかに売っていないだろうか。できればデザインも良いものが。

2008/09/26

薄暮レーベル

クレプスキュール(crepuscule)は、ベルギーのレーベルで英国ファクトリー・レコーズ系。1980年前後、というから、もうずいぶん昔だ(ちょっと愕然)。今となっては「オシャレ系」など簡単に呼ばれてしまうが、当時のその「オシャレ度」はちょっとしたものだった(のだと思う)。

所属ミュージシャンの楽曲を寄せ集めた商品カタログのようなコンピレーションがいくつか出ていたが、よく聞いたのは写真の2枚。

 The Fruit of the Original Sin 1981/11
 From Brussels With Love 1980/11

久しぶりでCD版を聞いてみると、懐かしい、というより、落ち着く。いま聞くにはツラい退屈なトラックも多いが、全体的には、静けさのある音楽、熱のない音楽。

なんでもそうだが、「熱」があればいいというものでもない。

マルグリット・デュラスが延々しゃべっていたりする。フランス語なのでチンプンカンプンだが、みょうに落ち着く。ドビュッシー「月の光」も、クラシック音楽の脈絡でなく、この脈絡で聞くと、また違って聞こえる。

この秋は、コレ系で行きたいと思うです。はい。

2008/09/25

また、ものすごいものを

「はいくちゃん」新キャラを発表 伊賀青年会議所
伊賀市の伊賀青年会議所(JC)は23日、伊賀をPRする新しいキャラクター「はいくちゃん」を発表した。同JCが6月に考案した「いが☆グリオ」に続くキャラクターを一目見ようと、同市の上野西小学校で開かれた発表会には地域の子どもら約100人が集まった。(中日新聞2008年9月24日)

ルックスとネーミングが、どっこいで凄い、この「はいくちゃん」は「へそ出しルックにミニスカートといういでたちの女の子。俳句を詠むのが得意」だそうだ。

すごく凶暴そう。

で、写真右が「いが☆グリオ」。この「☆」は?


そういえば、こんなのも。俳句座☆シーズンズ

こっちはオトナがやってるはずだが…。☆って……いったいw

2008/09/24

英国放送協会


BBC(英国放送協会)は、特別な放送局だと思う。

といっても、なにかいろいろ知っているわけではない。ロックやそのあたりのアルバムには「BBCライブ」がかなり多い。NHKライブとか聞いたことがないし、アメリカの放送局でのライブ盤も聞いたことがない(もちろんあるのかもしれないが)。そういうわけで、BBCというのは特別なんだな、と思う。

Wikipediaを読んでみると、英国政府からの独立性のことが印象的だ。

第二次世界大戦中もイギリス軍を「我が軍」とは呼ばず、アメリカ同時多発テロ事件を「テロ」でなく「攻撃」と呼んだ。(上記Wikipedia)

独立性・中立性の基盤となっているのが「受信料制度」で、BBCのこのシステムが世界中に広がったそうだ。日本放送協会(NHK)も受信料制度。しかしながら独立性・中立性はない。このあたりの事情は、BBCとの比較も含め『視聴者が動いた 巨大NHKがなくなる』(田原茂行)に詳しい。

イギリス人というのは、「ものごと、ほうっておいたら、グズグズ、グチャグチャになっちゃうでしょ? やっぱ、ちゃんとしなきゃいけないところはちゃんとしなきゃ!」という感じの仕事をしてくれる人たちだと、勝手に思っている。


※写真は、カーティス・メイフィールドのBBC Radio 1 Live In Concert。数あるこの人のライブ盤のなかでも、一等好いているアルバム。

2008/09/23

Haiku Song


アマゾンをウロウロしていたら、スラップ・ハッピーという英独混合バンドのアルバム2枚をCDに1枚に収録、しかも1000円ちょっと、というお買い得品を発見。むかしレコードでよく聞いた。懐かしさもあってもう一度聞いてみたくなり購入。

ブツが来てから、ちょっと調べてみると、アルバム「Acnalbasac Noom」の収録のはずが、「Casablanca Moon」。入っている曲はほとんど同じだが、「Charie'n Charie」という軽妙なアップテンポ曲がなくなって、そのかわりに「Haiku」という曲が入っている。

Haiku?

とっても怪しい。

聞いてみると(聞き取れる範囲だから、真に受けないよーに)…

  一茶が雪のなか荷車に乗り、妹の手を握りしめて言う。
  「さあ行こう。だって俳句がつくれそうなんだ」

なんだか楽しそう。

ん? 待てよ。

  Issa and her sister…

ハー?

2008/09/22

ビリーバー

成人の何割か、かなりの割合の人が「幽霊の存在」を信じている、という記事を読んだことがある。数字は憶えていない。アメリカでのある調査では4割が信じているそうだ(註1)。「信じない」もほぼ同数で、あとの2割は「わからない」。

「幽霊」と「Ghost」とは同じではないし、日本とアメリカでは宗教観も違うが、4割対4割で「信じる」「信じない」が拮抗するという結果は、日本の調査でも、そう変わらなさそうだ。自分がむかし見たのも、そのあたりの数字だったような気がする。

教育とは、国家にとっては投資、それも最重要な投資である。成人の4割が幽霊の存在を信じているこの状態は、投資的観点からは、とりわけ理科教育部門で「失敗」ということにもなろう。だが、どの人間も効率の良い機械に育ってくれるわけではない。それに生物学の先生が、幽霊を信じているということだってあるかもしれない。

それにしても4割は多い(アメリカの場合だけど)と思う人が多いだろう。しかし、この「信じる」ということ、なかなか一筋縄では行かない。「信じる」という行為の中に、いくつもの層があったり、概念的なデコボコがあったりする。

例えば、幽霊の存在を信じている人が空き巣被害に遭い、交番に届ける。お巡りさんから、「犯人については、人間と幽霊、両方の可能性を視野に入れて捜査します」と言われたら、いくら幽霊を信じていても、「はい、よろしくお願いします」となるはずがない。

あるいは推理小説。最後まで読んで、「犯人は幽霊。だから密室殺人も可能だった」という結末だったら、幽霊の存在を信じている読者であっても、「なるほど、幽霊だったのか。やっぱりな」とはならない。本を投げ捨てるだろう。

「信じる」は、そう簡単に割り切れるものでない。幽霊を信じている人も、「幽霊が存在しないという(社会の)前提」を理解している。

いずれにせよ、幽霊を信じる・信じないなどという個人の思い・表明が、それほど深刻な事態を招くことは少ない。宗教が「麻薬」なら、オカルト信仰もその亜種。けれども、人間全体としては、合法ドラッグとしての宗教や他人に迷惑をかけない範囲のオカルト信仰も必要なのだろう。

ただし、タチが悪く、実害を及ぼしそうな「信仰」もある。

この記事↓↓↓
関東地区公立小・中学校女性校長会 ;kikulog

「水からの伝言」の著者・江本勝なる人物の講演を、公立小中学校の女性校長たちが企画しているというもの(「女性校長会」というものがすでに愚劣臭ぷんぷんなわけですが)。

信じてしまう人のことを「ビリーバー」と呼ぶそうだ。これはもちろん自称ではなく、「信仰」の外にいて、それを問題視する側からの命名。

「水からの伝言」という疑似科学/オカルトが、道徳教育のツールとして学校に持ち込まれている事態についてはずいぶん前から問題視されている。ガッコの先生にも「ビリーバー」がいて当然だが、それが大手を振って、オカルト事業を振興あるいは後押しするとなると、話は別。問題でないわけがない。

ていうか、さっきの投資ということでいえば、国か何か知らないが、この校長先生たちに、「おめえら、なーに、やってんだよ。仕事しろ」ときちんと言うべき筋合いのことだろう。

幽霊の存在を4割の国民が信じていたってかまわないが、こういう教師が学校にいてもらっては困る。社会に実害が出るざんす。



(註1)社会集団別の数字も出ている。
全体40%(信じない39%)・男性33%・女性46%・高卒以下50%・大卒32%・大学院卒22%

2008/09/21

あたりまえのことを愛おしむ

『俳句研究』2007年9月号より転載


雪我狂流さんがこのところ要あらば用いる履歴には、こうある。

1948年、日本に生まれる。
1964年、ビートルズに狂う。
1967年、ゴダールの「気狂いピエロ」に狂う。
1977年、パンクロックに狂う。
1991年、俳句に出会う。

私が狂流さんと知り合ったのは「パンクロックに狂う」のすこし後。狂流さんが俳句を始めるのは、そのずっと先。私が俳句を始めるのは、そのまたずっと先のことだ。

狂流さんには、よく遊んでもらった。いい映画をたくさん観ていて、そのときどきのいちばんオシャレな音楽を知っている狂流さんは、私にとって先生のような存在だった。といっても「先生然」としていたわけではない。子どもは大事なことは学校の外で教わる。おとなになってもそれは同じで、世間で「先生」と呼ばれる人たちから学べることは少ない。

狂流さんが俳句を始めたと聞いたとき、どんなことを思ったのか、あまり記憶にない。その頃は俳句への興味のカケラもなかったからだろう。ただ、狂流さんがカバンから取り出した結社誌は、いつも持ち歩いてページをめくっていたと見え、ボロボロのヨレヨレだった。そのことだけは憶えている。

やがて私も、俳句を始めた。狂流さんと句座を共にする機会も得たて、狂流さんの句に魅了された。私だけではなく、句座の誰もが狂流さんの句を愛した。

  開けるとははづれることね春障子  狂流(以下同)
  馬糞紙のざらざらざらがあたたかい
  水の出ぬシャワーの穴を見てをりぬ

以上は最初の句集『御陰様』より。私家版50部限定だから、手にすることのできた人は幸運だ。こんなにキュートですてきな句集を私は見たことがない。

  まあきれいなんとまづそな熱帯魚
  仏壇に西瓜一個は多すぎる
  見晴らしが良すぎて寒くなりにけり
  口中の葱より葱の飛び出しぬ

引用にはクセや好みが出る。ここに引く句が狂流さんの魅力のすべてではないことをご承知置きいただいて、第二句集『弁慶の泣き所』より以下に引く。

  雛の家でかけるときは鍵かけて
  冷蔵庫しめてプリンを揺らしけり
  打上花火に五重の塔がじやま

やわらかく気持ちがいい。嫌みのない機知もすこし。ちょっと意地悪な視線もすこし。

「俳句なんて、つまんなくていいの」と狂流さんはよく言う。刺激的なこと、たいそうなことを読み込もうとしない。世の中の「つまんないもの」を指で軽くつまむように詠むのが俳句、というわけだ。ゴダールやパンクロックの興奮とは別のところにある俳句の風趣。俳句のいちばん美味しいところを私たちに見せてくれるのが、狂流さんの俳句である。

冒頭に挙げた狂流さんの履歴の最終項「1991年、俳句に出会う」には別ヴァージョンがある。曰く、「俳句に出会い、軌道修正する」……。気も狂わんばかりの刺激的な経験を経てその後、狂流さんはこの世に復帰した。

  幸福だこんなに汗が出るなんて
  三月や子供はみんな象が好き
  湖は平らなところボート浮く

世界があたりまえのようにある、そのことをこそ愛おしむ。狂流さんの句が、そして俳句というものが私たちに教えてくれるのは、気持ちよく幸せに暮らしていくための指針なのだろう。


2008/09/20

句集『七曜』




ベタでもなんでも、やはり持っておくべき、と思い、購入。山口誓子の第4句集(三省堂・1942年)。

1938年(昭和13年)から1941年までの4年間の句作が収められ、この間、肋膜炎の療養のため四日市市富田に移住(昭和16年9月)。

「甥の誕生」「鐵道ホテル」「箱根山中」等、表題が細かく付いて日記風。この頃の句集としてめずらしいスタイルではないのだろう。

  秋風に歯牙なき口のひた泣ける  誓子

甥の「岬」は、誓子が名付け親。いい名前ですね。

秋だ、ちょっと落ち着こう


Brian Eno "An Ending (Ascent)" from "Apollo..."

2008/09/19

私家版句集



雪我狂流さんの4つ目(?)の句集『帰ろかな』が出た。これまで同様、手作りの私家版。A6判と、文庫よりもさらに小さなポケットサイズ。秋の句ばかり93句を収録。どうやら季節ごとに1冊ずつ句集を作っていく、ということのようだ。

  もつともだ薄荷の花が白いのは  狂流

あいかわらずキュートな句がたくさん。

以前、狂流さんの第一句集『御陰様』が私家版で出たとき、「もっとたくさんの部数を、ちゃんとした(何がちゃんとしているのか知らないけど)自費出版にす れば、きっと話題を呼ぶのに」と残念に思った。けれども、そんな野心めいたこと、それも他人が思うのは、あまり意味がない。こういう手もあるな、と、今は 思う。

何十万、あるいはそれ以上の費用をかけて、しかるべき(俳句系自費)出版社から句集を出すのも、それはそれで意義深いことだが、みな、それぞれのやり方でよい。俳句が、読み手に届くか届かないかは、器(本としての体裁)の如何とはまた別のことろにあるから。

2008/09/18

薬缶とピアノ

「週刊俳句」2008年8月の10句作品について書いた。その記事には含めなかったが、2つの句がペアとして強く印象に残った(と同時に好きな句)。

  台風や薬缶に頭蓋ほどの闇   山口優夢

  水澄むや脳をピアノにして眠る  山田露結

ともに頭部(頭蓋、脳)に別の事物(薬缶、ピアノ)をあてがったもの。

1句内で2つのモノは互換性をもつようにも思える。「薬缶に頭蓋ほどの闇」と「頭蓋に薬缶ほどの闇」は意味するところが違うし、なにより詠む対象が違う。「脳をピアノにして」と「ピアノを脳にして」は、かなり近い意味になるが、それでも違うことは違う。

しかし、こうした違いは、意味を追えば、という話。意味にそれほどの拘りを持たなければ、喚起されるイメージが優先され、互換性が成り立つ。

このようにこの2つの句を眺めていると、やがてピアノと薬缶とが、自分の中で重なり合う、というか繋がって見えてくるから、不思議。

 薬缶ほどの闇=ピアノ

これはもちろん句の作者両氏には関わりのないこと。一読者の、どうということもない経験の話ざんす。



追記:
俳句的慣例めくが、この2つの句、それぞれ、「台風や」「水澄むや」という上五の季語が、きわめて巧みに句全体に響きを与えていると思う。そのことを言い添えておきますです。はい。

2008/09/17

なんとイナセな!…70年代ソウルグループ


踊る、踊る。

というのは、昨日のハロルド・メルヴィンとザ・ブルー・ノーツ(YouTube動画)の話。

70年代のソウルは唄や音もいいが、ステージパフォーマンス。とりわけ、お揃いのスーツで踊り歌う、この頃のソウルグループのそれは、演芸として最高峰のひとつだと思う。

踊りといっても、そんなに激しい動きじゃないところが、またイナセなわけで。

懐メロではなく現役当時の、動いているところが見たくなった。そこでグループは違いますが、ザ・ドラマティックスをYouTubeから。

3人リードボーカルのパートを分けて繋ぐところがまた嬉しく、どのアンちゃんも、魚河岸で働いていても、おかしくない。いい味です。

The Dramatics - (I'm Going By) The Stars In Your Eyes

2008/09/16

だめジャケ

「だめ」という言い方には、相応の愛情が含まれているという前提で。

「ジャケ買い」という用語はずいぶん前から定着している。ジャケとは、レコードやCDのジャケットのこと。中身(音楽)の確信なしに、ジャケットに惹かれて購入すること、くらいの意味だろう。

「ジャケ買い」がさらにマニアックになった「聞きジャケ」という趣味/娯楽(?)もあると聞く。「聞き酒」のもじりというところから想像するに、ジャケットを見て、未知のアルバム/未知のミュージシャンの中身の音を想像してしまう行為なのだろう。

ジャケットもレコード・CDの重要な一部なわけだが、なかには「だめジャケ」もある。というか、かなり多数に。

例えばソウルは全般に、だめジャケ比率が高いように思う。歌い手のにこやかな写真がただ飾られているパターン。ステージ衣装(歌手の正装)ならまだしも、「ひょっとして普段着?」的にグダグダの写真とか。

そんななか、愛すべき「だめジャケ」(ソウル系)を1枚。
Harold Melvin & the Blue Notes; Collectors' Item (All Their Greatest Hits!)

わざわざイラスト、なのに微妙なヘタさ加減、という点が、どうにもこうにも「だめジャケ」。にもかかわらず、なにかこう、激しく心を揺さぶる「だめさ」なのだ。

ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ (活動期間 1960 - 1997)は、フィラデルフィア・ソウル(いわゆるフィリー・サウンド)のビッグ・ネーム。ジャケはだめでも、お唄は、ぜんぜんだめじゃない。

YouTube から 代表曲 The Love I Lost。現役当時ではなく、懐メロ番組への出演と思しい。


2008/09/15

食とポルノグラフィー


上田信治「美味しそうな句・不味そうな句」(『俳句界』2008年9月号・特集:皿の上の秋)がおもしろかった。

食べ物が「美味しそう」に描かれた作品は、ポルノグラフィーに近い。(…略)何かにむけて人の欲望をかき立てるには、まず、その対象を生き生きと再現し、感覚を刺激すればいい。俳句には、季語と写生という持ち札があるので、対象のポルノ的再現はお手のものと言える。

これが冒頭。そののち美味しそうな句を挙げながら、モノの「現実感」、また、しばしば付随する物語性について、濃い記述が続く。筆の達者な人であることはよく知っている。併せて、掲句の豊かさ、鮮やかさも。この人のアタマには、強力な俳句データベースが備わっているようだ。

で、ちょっと話をそらして。

食と性行為は、言語的なレベルでたいへん繋がりが深い。卑近な例示になるが、「据え膳食わぬは男のうんぬん」「食っちゃう」などなど。これは日本語だけの事情ではないらしい。

英語で巧い例は思いつかないが、十代の頃、ちょっとマセた友人が、レッド・ツェッペリンの「レモン・ソング」という曲の歌詞をさかんに艶笑的に騒ぎ立てていたことを思い出した。

The Lemon Song lyrics

スクイーズ(squeeze)は、「絞る」を含んだ「抱きしめる」で、性的含意は広く浸透したものかもしれない。女性シンガー、マリア・マルダーにも「スクイーズ・ミー」という曲がある。

Squeeze Me lyrics

閑話休題。

「美味しそうな句・不味そうな句」という記事には、数は少ないが「不味そうな句」も掲げられている。

  虎がこすつたぬくい鉄棒味噌汁の中  永田耕衣

たしかに不味そう。

この記事の最後には、永田耕衣のとびきり美味しそうな句も3句挙げられていて、このへんがさきほど言った「掲句の豊かさ、鮮やかさ」。不味そうな句だけ挙げられたんじゃ、永田耕衣も浮かばれない。

『俳句界』9月号を手に取る機会があれば、ぜひご一読を。

2008/09/14

偶然から生まれるもの


西部開拓時代のアメリカ。ひとりの男が馬車で西をめざす。ところが途中で車輪を岩にぶつけ、荒野のまんなかで立ち往生。あとからやってきた馬車から、衣服と交換に食糧を分けてもらう。車輪の修繕には時間がかかった。それからまたやってきた馬車と、物々交換で、必要品を手に入れる。

男が立ち往生したその場所に馬車を停めて、西に行く途中の馬車と物々交換や売買を始める人間が現れる。それがひとり増え、ふたり増え、やがて町になり、町はしだいに大きくなり、何百年か経って、人口数十万の都市になった。

地勢、気候、政治的・文化的位置関係その他によって、そこに都市が生まれたのではない。はじまりは、ひとりの男の偶発的トラブルだったのだ。

と、これは、ミッシェル・セールという人の本で読んだ話のうろ覚え。どの本かも忘れた。

2008/09/13

錯誤から生まれるもの


例えば、チョコレートと思って口に入れたものが栗だったときの、その、なんとも言えない感じ。

(…)一夕、余ハ郷里ノ栗ヲちよこれえと玉ト誤認セリ。余ノ視野ノハヅレニ一皿のちよこれえと玉の現ハレタルハ、余ガ机上ニテ二本の蘚(こけ)ノ比較ヲ試ミ居タル時ニシテ一皿ノちよこれえと玉ハコトゴトク銀紙ノ包装ヲノゾキ、ちよこれえと色ノ皮膚を露ハシ、多忙ナル余ノ食用ニ便ナル玉ナリ。余ハコノ心ヅクシヲ心ニ謝シ、乃チ一個ヲトリテ口辺ニ運ブ。而ウシテ、アア、コレハ一粒の栗ナリキ。(尾崎翠「第七官界彷徨」1933年)

たくさんの素敵なことが、錯誤から生まれる。

「アア、コレハ一粒ノ栗ナリキ」の「アア」のために、私たちは生きている、ともいえる。


上に引いたのは、苔の研究者の論文の一節。「第七官界彷徨」という(カルト的人気?)小説のなかで、一等好きなシーンのひとつ。

2008/09/12

永代橋な散歩


永代橋を渡った。あのへんに出かける用事があると、すこし足を伸ばしてでも、渡る。散歩と題したが、クルマのことも多い。

東京に住んでいる人で、「永代通りならよく知っているが、永代橋って?」という人が多いかもしれない。茅場町と門前仲町の間に架かる水色の橋。

話題のストリート・ビュー↓

大きな地図で見る

なぜ渡るのかというと、橋が好きだから。橋マニアではないが(知識は皆無だし、ね)、橋ラヴァーとは言える。

歩いて渡った最長の橋は、おそらく富士川橋。1923年竣工。399メートル。最長というわりには短い、と思うだろうが、歩くと、結構なものだ。永代橋は1926年竣工。184.7メートル。きっと、1920年代の橋が好きなのだ。

橋を渡るという行為には、なにかカタルシス効果があるのかもしれません。はい。


永代橋イメージ検索

2008/09/11

「ペン先における存在」 


『モダン流行語辞典』をちょっとネットで調べてみると(はい、googleです。安易ですみません)、国立国会図書館の第107回常設展示「流行語あれこれ―時代を映す言葉たち―」(平成12年2月28日~4月21日)に出品されたことがわかった。

その解説にこうある。

昭和初期その実在をめぐり、物議をかもしたのが「ステッキガール」。「散歩の相手をする代償として料金を求める若い女」ということだが、資料にもあるように「ジャーナリズムのペン先における存在」であったようだ。

つまり、ステッキガールと呼ばれる女性が実際に存在したのではなく、記者が作り出した虚構というわけ。

ひょっとしたら一人や二人はいたかもしれない(モダン流行語辞典にあたると、その説明に「銀座に出現して」とある)。奇妙な商売の噂を耳にした記者が、散歩の相手なら「ステッキがわりか」と頓知をきかせて「ステッキガール」と名づけ、流行語辞典に載せる。筆(ペン先)が滑る、というやつだ。

読者のなかには、それがれっきとしたカテゴリーとして存在するかのように思ってしまう人もいれば、「ほんとに?」と眉に唾する人もいただろう。

なお、ガール関係では、「ガソリンガール」という立項もある。富安風生の句「退屈なガソリンガール柳の芽」(*註)の、あのガソリンガール。

ガソリン・ガール
最近自動車が激増して來たので、都會地の各所にガソリン・スタンドが出來、そこでガソリンを賣つてゐる。そこのガソリンの賣り子のこと。朝は八時から夕方六時まで、そのガソリン・スタンドの横の小さな家に一人で勤めてゐるので、色々と面白いローマンスが生れて來る。(モダン流行語辞典)

前半の説明はいいとして、後半、すごく余計なことが書いてある。「ローマンス」の箇所もまた「ジャーナリズムのペン先における存在」と見ていいのだろう。



(*註)参考記事:成分表 3「感情移入」上田信治(週刊俳句第4号-2007年5月20日)

2008/09/10

昭和8年の流行語

『モダン流行語辞典』なる辞典が手元にある。昭和8年刊。ポケットサイズで450頁ほど。めくってみると、いろいろとおもしろい。

意外だったのは、わりあいに新しく、せいぜい戦後から使われはじめたものだろうと、なんとなく思っていた語の多くが、昭和8年時点ですでに流行語として日常会話に定着していたことだ。

百パーセント
一パーセントと云ふのは百分の一、そこで百パーセントは一、まぜものなしの完全と云ふことである。これが近頃盛んに流行してゐる。例へば、百パーセントモガと云ふと、眞性眞銘のモダン・ガール。百パーセントの愛と云ふと完全な愛のこと。この言葉は何にでもつくので便利である

「彼氏」、「じゃんじゃん」、「ダンチ」(段違い)、「セコ・ハン」、「いみしん」(意味深長)なども、この辞典に収録されている。当時すでに、なのです。

言葉を略すパターンが多いのは今と変わらないが、「ウル・ナン」(ウルトラ・ナンセンス)は今は聞かない。「もち・コース」(もちろん+オブコース)は、私の年代だと、はるか昔に聞いたことがあるような気がする。

名詞を動詞のように使う例も当時からあった。

たくる
歩くことが「テクル」、デパートに出かけることが「デパル」、冗(くだ)らぬことを喋るのが「ダベル」と同様、タクシーに乗ることは「タクル」。

今でも使われますよね、タクル。ごく一部で。

「どーまり」って、なんの略だろうと思って読むと、「『どうもありがたう』が縮まり、『どうもあり』、それから『どうまり』となった」とある。今なら「あけおめ」か。昔の人も、同じようにバカなことやってたんですね。

女学生特有の流行語もある。

トテモロ
女學生流行語。非常にといふこと。

ルートの3
數學のルート3は開平法の示す様に割り切れない。そこで女學生間では封入のサインに用ひる、また態度のはつきりしない、にえきらない人のことを「あの人はルート3で困る」等と用ひる。

女学生もまた今も昔も変わらぬ不思議な存在なのだと思う一方で、「ほんとかなあ」と眉に唾つけてみたくなる。

監修の喜多壮一郎については、「早大教授」というほかは、あまりわからないが、実際に原稿を書いたのは出版社の社員か記者(今で言うライター)だろう。この辞典、ちょっといいかげんなところも多い。

例えば、ロボットの語源は、カレル・チャペックが戯曲「R・U・R」の中で用いた造語というのが定説だが、この本には「英人ウィリアム・H・リチャーズ大尉」が発明した「エリック・ロボット(Eric Robot)」が世界初の本格的人造人間で、それが語源と、堂々と書いてある。「ウィリアム」とか「リチャーズ」とか「エリック」とか、あまりに「いかにも」な固有名詞。

ひょっとして、デマカセ、書いてるでしょ?w

楽しめる辞典です。はい。

2008/09/09

同名異曲

「同工異曲」ではありません。為念。

歌のタイトルに著作権はないらしく、同じタイトルでも曲は別ということもめずらしくない。

The Who という英国伝統のロックバンドに「My Generation」という有名曲がある。聴きたくなって You Tube で検索。The Who が歌い演奏する My Generation がたくさん見つかり、別のバンドが演奏する(カヴァーヴァージョン)動画もたくさん見つかる一方、同名異曲も少なくない。日本人が My Generation というタイトルで日本語を歌っていたりもする。それはそれでかまわないのだろうが、すこしだけ引っかかる。あまりいい気持ちがしない。

カヴァーするのならいいが、まったく別の、自分の曲に「My Generation」というタイトルを付けるというその行為が(というとすこし大袈裟ですね)、まあ、なんというか、はっきり言えば、気にくわない。

The Who の大ファンというわけではないが、ロック音楽を聴いてきた人間からすると、My Generation は特別な曲である。名曲かどうかは知らないが、この曲の存在感を認めないわけにはいかない。だから、筋の通らぬ言い分であろうが詮無い願いであろうが、このタイトルを別の曲に使ってほしくない。

My Generation=私の世代(って直訳すると、とんでもなく間抜けになりますね)というからには、歌う人それぞれに My Generation への思いがあっていい、という発想はわかるが、わかりすぎるだけに、とてもカッコ悪くもある。

My Generation は The Who が歌った。だから、このタイトルはもう誰の曲にも使えない。そう考えるわけにはいかないのだろうか。野球でいえば「永久欠番」のような扱いがあっていいと思うのです。はい。


というわけで、You Tube から。



ドキュメンタリー映画「The Kids Are Alright」からテレビショウでの演奏。「悪ガキ」を演じる4人、それに手を焼く司会者。すべて演出のなかにある。この虚構の感じがかえって「いかにも」。

ついでにもうひとつ。一時期話題になった老人ばかりのボーカルグループ、The Zimmers のカヴァーヴァージョン。My Generation というタイトルがとんでもなく効いている。こうでなくっちゃ。なんだかワケのわからない曲にいたずらに有名曲と同じ名前を付けるんじゃなくて。



2008/09/08

1978年の中堅俳人

ひきつづき『俳句研究』(1978年1月号)特集「新俳壇の中堅」のこと。

中堅としてこの特集に登場する38人を挙げておく。くわえて、このうち、冨田拓也「俳句九十九折(2)」(昨日9月7日更新の『俳句空間―豈weekly』)にある「俳句の始まりから現在までを作者名の羅列」された308人にも挙げられている俳人には印を付す。

飯島晴子 
鷲谷七菜子 
轡田 進
斎藤美規
磯貝碧蹄館 
森田 峠
伊丹公子
岡井省二 
杉本雷造
宇佐美魚目 
穴井 太
飴山 實 
川崎展宏 
中戸川朝人
福田甲子雄 
岡本 眸 
阿部完市 
志摩 聡 
加藤郁乎 
広瀬直人 
大峯あきら 
宮津昭彦
河原枇杷男 
原 裕 
桜井博道
平井照敏 
大井雅人
岡田日郎
杉本 零
上田五千石 
折笠美秋 
矢島渚男 
安井浩司 
大岡頌司 
大串 章 
福永耕二 
酒井弘司 
竹中 宏 

38人のうち25人が、冨田拓也の挙げるラインナップにも登場する。ここに洩れたから、また洩れなかったから、どうこう、というのではない。「25人」という数字は、かなり多いと思う。また、印の付かないなかにも、現在、俳句総合誌などでよく拝見する作家名があることからすると、当時の中堅作家のうち多くが、30年を経た2008年時点から振り返った「俳句史」にも名を残していると解していいのか。あるいは、30年後にもりっぱに通用するラインナップをこしらえた特集編纂の目効きぶりを思うべきなのか。

さらに、あるいは、むしろ逆に、こうした俳句総合誌のラインナップ(人選)が、「俳句史」をつくっていくのだ、と解するべきなのか。


まあ、しかし、こうした表面的な捉え方(作家名ラベル的な文学史把握)に大した意味はない。ちょっとしたよもやま話でござんした。

2008/09/07

俳人の処女作

昨日の『俳句研究』(1978年1月号)特集「新俳壇の中堅」の話題をひきつづき。

この特集、自選15句にくわえ、39人の(当時)中堅俳人の処女作(公表)が年表に整理されて収録されていて、読者としてはそちらにも興味をそそられます。ちょっと見ていきます。

  栗の木を見あげる枝に栗がなる  加藤郁乎(1938年)

「冬の波冬の波止場に来て返す」(郁乎)の原質を見るような句ですが、本人の注釈として「処女作には参った。『黎明』昭和13年11月号から拾い出してみたが(…略…)、亡父紫舟選の雑詠欄にケツから数えて14番目、本名で1句入選している。ちなみに10歳の秋、祖母の松浦もと女が手を入れたかもしれない」とある。

  鳥墜ちて青野に伏せり重き脳  安井浩司(1958年)

きのう取り上げた安井浩司は「いかにも」な下五。

  一日の外套の重み妻に渡す  飯島晴子(1960年)

外套はマントと読むのだろう。あざやかな句の多い俳人。期待して読んだが、ちょっと反応がしづらい。

意外だったのは次の処女作。

  面影や港にひらく星祭  阿部完市(1952年)

阿部完市のことを、「いまいちばん〈行っちゃった感〉のある俳人」として敬慕しているが、処女作は、まったくどこにも行っていない。


関連記事 「まひる」の作家? 安井浩司

2008/09/06

「まひる」の作家? 安井浩司


  まひるまの門半開の揚羽かな  安井浩司

半開きの門から揚羽が…と読んではつまらない。「まひるま」を時間の特定とだけ読んでもつまらない。「まひるま」=門→半開=揚羽。揚羽が、まひるまの門(あるいは、まひるまという門)の半開そのもののように在る。俳句形式のなかでことばが作用する、そのダイナミズムをそのまま呑み込むのがいい。

掲句は『俳句研究』(1978年1月号)特集「新俳壇の中堅」から引いた。この特集、阿部完市、穴井太、飯島晴子等々、38人の当時「中堅」が自選15句を挙げ、短文を付している。古書店でたまたま買ったものだが、「美味しいとこだけ」的にオトクな1冊。

安井浩司の自選15句で興味深いのは、「まひる」という語を含む句が4句もあること。

  南北のなんでまひるの荻や馬

  犬二匹まひるの夢殿見せあえり

  死鼠を常(とこ)のまひるへ抛りけり

「まひる」がこの作家のキーワードなのか。たまたまこの時期だけなのか。もっと読んでみたい作家のひとり。

2008/09/05

チャンバラ・フィギュア 〔2〕

『用心棒』の卯之助(仲代達矢)のフィギュアなのですね。猫髭さん、ありがとうございます(前記事コメント欄)。

調べてみると、売ってました、用心棒フィギュア(ただし卯の助は売り切れ)。
http://www.hellohappy.com/list.cgi?ctg_id=kurosawa

チャンバラ・フィギュア

知人からもらったチャンバラのフィギュア(身長76mm)を部屋で撮影してみたら、なんだかえらくリアルな空気。
















写真は、人間が目で見るのとまったく違うものを映しだす。かんたんな話、例えば、人間の目には、この写真のように背景がボケて映らない。ちゃんと見えてしまう。

ところで、ピストルを持った浪人風のこの人、昔のチャンバラ劇に確かにいたような気がするが、まったく思い出せない。

2008/09/04

証明不可能

「振替口座」を作りに近くの郵便局へ。

この書店が開業したら、本を買ってもらった人から代金の払い込みを受ける。そのために必要な口座。「郵便払い込み」の手数料は、窓口120円、機械を使うと80円(3万円以上は330円・290円)。銀行振り込み手数料より安い。銀行はヘタすると420円と、凄まじい手数料。手数料が収益を支えているという、とんでもない事態。そんな手数料を銀行にくれてやることはないわけで、「郵便払い込み」は、こうした商売には必須。

ところが、窓口で聞いてみると、この口座開設が少々やっかい。本人名義なら、免許証など本人確認だけで済むようだが、今回は、名義を「七曜堂書店」にしたい。となると、私本人がその「七曜堂書店」なるものをたしかに運営している、その証明が必要なのだという。

それはそうだ。窓口にやってきたオッサンと、そいつが言うインターネット上の古書店は、ひょっとしたら何の関係もないかもしれない。

「近頃は、機械で簡単に払い込みができてしまいますから、審査が厳しくなっているんです。いや、あの、お客様が口座を悪用されるという意味ではなくて」

わかります。おっしゃっていること。

しかしながら、インターネット上のサイト(このブログ)が、「私」の手になるものであることを証明するのは、かなり難しい。どこにも証拠がない。例えばIPアドレスやらドメイン名から、「ほら、これは私のPCで私が契約した回線経由でつくったサイトです」などと説明する? 私のスキルではムリ。

考えてみれば、インターネット全般、あるサイト・ある書き込みと現実の人間の関係はあやふやなものだ。ここで言う「私」はたしかに私なんです、と証明することはできない。なんとなく、この人はあの人なんだ、と信じて、ネット上でやりとりしている。

さて、今回、郵便局株式会社の審査担当氏に向かって、どう説明するか……。この「七曜堂書店」のページ、そしてログイン画面をプリントアウト。それらを簡単に説明した書面をつくった。「でも、こんなもの、私以外でも、作ろうと思えば作れるよなあ」と思いながら。かつ、「偽造して、どんなトクがあるんだよ?」とも思いつつ。

2008/09/03

七曜…屋号の由来のようなこと

ウェブ上で古本屋を立ち上げるのにまず必要だったのは屋号。サイトを立ち上げるにもこれがなくては始まらない。

最初に頭に浮かんだのは「日曜堂」。プロとして古書店をやるわけではない。日曜大工みたいなものだから「日曜堂」。

地下鉄外苑前駅から北に少し歩いたところに「On Sundays」という舶来の文具やら絵葉書を扱う綺麗な店があった(*1)。店名から察するに、開店当初は日曜日だけ営業していたのではないかしらん、と思いつつ、若い頃、ときどき立ち寄った。あの「オン・サンデーズ」も頭のどこかに残っていたのかもしれない。なにしろとても居心地のいい店だったから。

さて、しかし、実際の店ならともかく、インターネット上には営業日も定休日もない。「日曜堂」の名はそぐわない。それではと「七曜堂」にした。

ここまで要した時間は数分間。これがいい名前かどうか、自分ではよくわからないが、いったん名称を迷い始めると、深みにはまることもしばしば。なかなか決まらなくて困り果てるいう事態も考えられたので、短時間で決まったのは「吉」ということだ。

  麓しき春の七曜またはじまる  山口誓子

七曜というふだんあまり使わないことばが、しっかりと自分の心の中に備わったのは、この俳句を読んでからだと思う。

今回の思いつきが晩夏というこの季節でなく春だったら、もっと嬉しかったが、それはまあいいとする。ともかく年中無休だから「七曜堂」ということです。はい。



(*1)「On Sundays」を検索してみると今でもありますね。http://www.watarium.co.jp/onsundays/about.html

2008/09/02

タイトルを聞けば察しがつく

おもしろいのか、おもしろくないのか、タイトルを聞けば、だいたいの察しがつく場合がある。

自分の部屋でくつろいでいたら、お向かいさん家の娘さんの友だちが遊びに来た。「ブログを始めたから見て」と言うので、どうせまた、テーマのない日記みたいなブログか(このブログだ!)、食べ物ブログか、とタカをくくって、「タイトルは?」と聞くと…

「密着ばあちゃん24時」

わっ!とびっくりして(そのタイトルなら期待大)、目の前のパソコンですぐさま検索。

http://ameblo.jp/opuutoosuu/

んんん。

おもしろい。

おばあちゃん、大活躍。

始まってからまだ20日。続けていけば、人気爆発しそう。

2008/09/01

太古の音楽

この数日、雷がすごい。窓を開けて、しばし見物。視界全部がフラッシュを浴びたように浮かび上がる。そのあと大音響。

ところで、むかし、電気的に加工された音楽(という言い方も奇妙ですね。つまりナマの楽器や声ではなく電子楽器やアンプ・スピーカーを使った音楽)は、保守的な音楽愛好家からは忌避された。ロックバンドもそうだし、ある種の現代音楽もそう。音楽の伝統からすれば、「現代風」にちゃらちゃらした音楽のように受け取られることが多かった。ビートルズの長髪が「不良」っぽいとされた時代のことで、今から思うと奇妙な風潮ですが、実際、そんな雰囲気はあったのです。

そうした忌避、「新しい音楽」への否定的な見解に、冨田勲という人が異論を唱えた。「なにを言っているのか。人類最初の音楽的快楽は、雷鳴だったにちがいないのだ。電気的な音楽は、新しくもないし現代的でもない。最古の音楽なのだ」

…と、これはむかし友人から聞いた話。冨田勲が実際そんな反論を披瀝したかどうか確認はしてない。その友人は、本で読んだのか、なにかを観たのか、それもわからない。ともかく、それを聞いた私(たしか高校生だった)は「なるほど」と深くうなずいたのでした。

そんなことを、雷の大音響を聞きながら思い出したわけです。はい。

2008/08/28

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